slow2018030101 伝承についての雑記

はじめに

 僕は映画や本、音楽を勝手に解釈するのが好きな人間で、この記事では、そういった妄想めいたものについても触れています。

 その解釈が、製作者の意図とかけ離れたものである可能性が高く、そのために気分を害する方がいらっしゃるかもしれません。

 その他、お見苦しい部分、飛躍した論理などがあるかと思いますが、あくまで思考実験的なテキストであるということで、何卒ご容赦願いたく存じます。


「グランド・ブダペスト・ホテル」と「ブレーメン」

1.伝承の構造に惹かれる

 本編から、せつないラストまで、素晴らしさが詰まったウェス・アンダーソンの映画「グランド・ブダペスト・ホテル」なのだけれど、誰かにこの映画のどこが好きかと問われると、僕はプロローグだと答える。

 映画は墓地から始まる。そこに作家の胸像がある。その前で女性が、作家の著作を開く、するとその作家が語り出すのは、彼がまだ若い頃、ホテルのオーナーから聞いた物語である。

時系列に並べなおすと「ホテルのオーナーの体験 → 作家が本にする → それを女性が読んでいる → そのシーンから始まる映画を観ている」 という、この構造が、どういうわけか好きだった。

 元々、気に入った映画など(ティム・バートンの「ビッグフィッシュ」とか、赤堀雅秋の「その夜の侍」とか)を勝手に考察する趣味があったものの、その割には、今回の「昔話 → 本 → 映画」という「伝承」の構造に惹かれる理由を、うまく言語化できていなかった。

2.歌詞をよく聴くと

 くるり ブレーメン (Spotify) 

 最近Spotifyに、くるりの楽曲が追加されたので、久しぶりに「ブレーメン」の歌詞を聴いてみたところ、かなり驚いた部分があった。歌詞全部を引用すると問題がありそうなので、2番の歌詞から一部を抜粋すると、

散り散りになった人は皆
ぜんまいを巻いて歌い出す

というのがあって、この歌詞を「ぜんまいを巻いて歌い出す人」=「ぜんまいのついた人」=「人間型オルゴール」と勝手に解釈してしまい、急に想像が膨らんで、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」に収録された「長の年月」を思い出すなどした。

 しかし、今までいかに漠然と聴いていたのか、ということでもあるので、反省して歌詞全体を確認したところ、上記のオルゴールについての解釈とは別に、「グランド・ブダペスト・ホテル」のような伝承の構造を発見する。続いての歌詞が、

そのメロディーは街の灯りを
大粒の雨に変えてゆく
少年の故郷の歌 ブレーメン君が遺した歌

となっているのだ。これを時系列に並べなおすと「『君』がブレーメンに歌を遺した → ブレーメンで生まれた少年が、それを故郷の歌としてオルゴールの曲に選んだ → 街の人(人間型オルゴール?)がそれを歌い出す」というように、「歌」の伝承についての物語であるように解釈できる。

3.なぜそれを見いだすのか

 などと言っても、「ブレーメン」が本当にそういう曲なのかどうかは、かなり疑わしい。僕は映画や音楽に限らず、どうも物事を自分勝手に解釈してトラブルになることが多すぎる人間なので、おそらく見当違いの考え過ぎなのだと思う。

「グランド・ブダペスト・ホテル」においても、これがオーストリアの作家ツヴァイクに捧げる作品であるということが作中で明言されており、別に「伝承の構造」そのものに重きが置かれてはいないということも明らかである。

 だとすると、僕はどうしてそういう勘違いを起こすのだろうか?二つの作品に共通する「伝承」という要素について、どうして着目し、あるいは、ありもしないのに見出だしたりするのだろうか?

しばらく雑多に考える

1.人間より信用できるもの

 伝承といっても、ずっと口伝で引き継がれるものよりも、その過程で様式が変わるものが好みであるようだ。伝承そのものが目的とされたものや、伝承されることが重んじられているものではなくて、ひょんなことから引き継がれる、引き継がれてしまっている、ということに心が踊る。

 意図されず、人伝いに引き継がれるものとして、真っ先に連想するものには、インターネット・ミーム(文化遺伝子)がある。おかしなスラングになったり、イラストであれば構図になって、引き継がれる。

 では、インターネットが起こる前からあるミームについてはどうだろう。それらはミームというほどに要素分解され切らずに、一作品ずつとして引き継がれるもののほうが目立っているように思われる。あるいは、ある作品の要素が、別の種類の作品に乗り換えて引き継がれていく。

 いずれにしても、「意図されず」という要素はインターネット上のものよりも弱く、キチンと梱包されているような気がする。そのうちの「古典」と呼ばれる類のものは、人間の一個体の寿命よりもさらに長く引き継がれてきた。

 そういうところに何か魅力を感じるかというと・・・魅力というより、人間の寿命よりも長くて当然、長くてようやく一人前、というような感覚に近い。

 ただ、作品やミームが、人間よりも長命であるということだけで惹かれるのかというと、それも違う。どちらかというと、人間同士を経由して、一人一人の存在よりも長い射程で飛び移っていこうとする、その態度に惹かれる。

 それは、僕が相対的に人間のことを軽んじているためかもしれない。自分が死んだ後も世界が続くという時に、どうも生物的な個体よりも、文化的なものとして継承されたり保存されたりするもののほうが信用できるような気がしてしまう。このあたりに「伝承」を希求する、考え方の歪みのようなものがありそうだ。

2.未来仏も現れるというし

 もしも、人間たちが、その文化を通じて発展し、多くの諸問題を少しずつでも真剣に、解決へ結びつけることができたら、それは古の時代よりもその分だけ、良い世界を実現させたことになる。

 技術の進歩、学問の進歩、インフラの進歩。もちろん、それだけ事態は複雑になっていくけれど、それは今まで取り組むことすら叶わなかった新しい命題か、その日までに解決できなかった歴史ある難題に対峙しているということであるはずだ。

 そうして、文化的なものを含めた「人間から人間へ飛び移っていくもの」の働きによって限りなく濾過された世界を、浄化された世界(浄土)と呼ぶことができないか、などとという大それたことを考えてしまう。

 「飛び移っていくもの」は、良いものばかりではないし、苦しみのない世界は、きっと半永久的に「(古い)苦しみのない(新しい苦しみの)世界」にすぎないのだとは思う。

 けれど、良いことと悪いことが一進一退で、どちらかというと一退のほうが強い現代においても、過去からずっと人間たちの間を飛び交って、さらに遠くへ行こうとするものの働きはいまだに途絶えない。

 形を変えた伝承、思いもよらない伝承、そういうものの「飛距離」に思いをはせることが、自分の「好み」であるということ。それは未来において世界はより良くなっているという漠然とした期待や願いによるものである。こういうことは仮定できるかもしれない。

3.バラバラの輪廻

 仏教用語をあてたついでの蛇足。

「生まれ変わって素晴らしい世界に行く」という宗教観は仏教に限ったものではないのだけれど、その生まれ変わりが実現した場合、どうして大概「元の人間個体の『まとまり』がそのまま引き継がれる」という前提をもっているのだろうか。という疑問を、昔から持っていたのだった。

 物理的にも、人間を司っていたものは、死を契機に分解され、無生物として周辺の環境に還元される。それを様々なかたちで取り込んで、数多の生物が生命を持続させているとしたら、その人間は原子レベルで部分的に、生まれ変わっていることになる。

 こういうことが、精神的な活動においても起こっていると思う。つまりミームのように今日まで引き継がれてきた、人間を飛び移ってきたものというのは、死んだ人たちの一部でもあって、それが人に乗り移っている間だけ、その死者は部分的に「生まれ変わっている」という言い方ができないだろうか。ということである。

 インターネットによってそのミームは機動性と揮発性が高まったとは言えないだろうか。それが良いことかということは分からないけれど、その速度と範囲の極端な変化が、カンブリア大爆発のように将来重要な契機になるということはあるかもしれない。

まとめ

 漠然と気になっていたことについて、いざ文章にしてみると、随分とりとめのない内容になってしまった。学が無いために、ほとんどのことを無根拠に感覚で書くことほど頼りないことはない。

 それでも何かの足しに、つまり自分という「飛び石」に乗り移ったものが、次の地点へジャンプするためのきっかけのようなものを作ってみたかったし、今後もそういうものを作っていけると、気が済むのかなと思っている。

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dechi

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