秋元康は「そこそこ可愛い女の子たち」を憎んでいるとしか思えない。

ジャニーズのタレントがTV番組などで「ジャニーさんがこんなこと言った」「あんなこと言われた」と面白おかしく話す場面をよく見る。どの話も面白い。タレントのジャニーさんへの敬意と愛情、ジャニーさんのタレント、ショービジネスに対する愛情と情熱を感じる。
あれだけ大勢のタレントがいれば、それは競争社会で、ジャニーさんのお気に入りが推される、という図式はあるに違いない。
いろんな噂がまことしやかに流れてる。
でも私がジャニーさんを嫌いにはならないのは、世界で一番ジャニーズを愛しているのはジャニー喜多川氏その人だと思うから。

コンサート会場でジャニーさんを見かけたことがある。開演よりまだ早い時間帯に、ジャニーさんは会場外へ出てきて、グッズ売り場や、集まり始めているファンの様子を長いこと見ていた。
社長、プロデューサーの肩書なら、楽屋でどっしりと座ってお茶でも飲みながら、YOUたち今日もがんばっちゃってね、と鷹揚に構えていてもいいだろう。
でも、ジャニーさんは現場の人だった。現場の熱気をその眼で確かめる人。
だから私は、どんな噂があっても、ジャニーさんを嫌いになれない。

対して、秋元康という人。
山口真帆さんの事件は鎮火するどころか、第三者委員会の報告とやらで、最終的に運営本体がガソリンをかぶって、誰かが擦ったマッチを放り投げてくれるのを、じっと待っているみたいに思える。

秋元康は女の子が嫌いなんだろうなと、いつの頃からか感じていた。
そこそこ可愛くて、自己主張をする、男や友達を選ぶ権利を持っている女の子たち。そんな彼女たちを競わせ、本来彼女たちに選ばれないであろう男たちが列をなして群がり、手が触れる様を冷ややかにながめている。自らも「そこそこ可愛い彼女たちに選ばれなかった男」のコンプレックスを、アイデアと権力で憂さ晴らししているのではないか。

女の子を、人間を尊重していたら、「セーラー服を脱がさないで」などというセリフなど思いつかないはずだ。
時代がゆるやかだったとはいえ、何の情緒もない際どい歌詞。性的なことを歌う若い歌手は昔から多くいたけれど、そこには3分間のドラマの表現があった。だから今でも歌い継がれている。
「ともだちより早くエッチがしたい」?
確かに、早く経験することを競うバカもいたような気がする。でも、極少数のバカ女が言いそうなことをわざわざ掬い上げ、下手くそな素人集団に歌わせる発想。それが彼の本質の原点なのではないか。

綺麗ごとだけで、社会人は務まらない。それは、芸能界に縁のない一般社会でも同じこと。どんな社会にも、競争はある。
でも、同僚を物理的に傷つける犯罪を画策して手引きした社員をとどめておくような会社は、この先伸びる未来はない。優秀な人は、黙ってすぐさま離れていく。もっと幸せな、働きやすい場所はほかに必ずあるから。

結果を出せない社員は去る、それもある。会社は仲良しごっこ、お友達サークルではないから。

会社は利益を生むためにある。問題のある社員をお咎めなしで据え置く理由があるなら、それは利益のためだろうか。お友達ごっこの一環なんだろうか。

スタッフ、働く人たちは宝。

経営者は時に、冷徹な判断をしなければならない。情に流されると、全てが流されてしまう。でも、人を大切にしない経営者は、必ず反撃にあって足元をすくわれる。

たとえ芸能界という特殊な世界でも、初めから「女の子たちが争う阿鼻叫喚の華やかな地獄」を眺めるために作られた偶像なら、群衆は創造者に石を投げるだろう。

華やかな地獄に自ら足を踏み入れた女の子たちの魂も体も、浄化されることを願います。出来れば、そこに関わった大人のひとたちも。