たまには音楽の話を

最近は鬱で仕事をサボってます。

作品作りのために「音楽」自体について調べており、クラシックからアニソンまで聞きたいので、apple music に加入した。思いの外楽しめてます。

自分の趣味は、ロックとブルース、ジャズなどのアメリカポピュラーをベースに基本雑食。平沢進や陽水も好き。apple musicのおかげで、クラシックやボカロ系など今まであまり聴いてこなかった音楽もサクッと再生している。作品の資料だと思うと好みを通り越したところで聞くことができ、そのことで新しい発見などもあり、純粋に音楽を聴く楽しさを取り戻しています。

クラシックが聴けるようになった。

ずっと興味があったけど、教養のない人間にとっては長くつかみどころの無い音楽は聴こうと思う気力も湧かず、その門をくぐるのを躊躇していた。たまに聴くのは『太鼓の達人』で好きになったラヴェルの『クープランの墓』ぐらいだった。

それが最近『音楽の進化史』という本を読んでみて西洋音楽の全体像を掴んでみるとクラシック音楽へのハードルがグンと下がったのです。それは突然に教養が身についたからとかそういうことではなく、単に作曲家の動機を知ることができたからだ。

バッハは神のために、モーツァルトは宮廷のウケる音楽として、その後に続く作曲家たちも新しい音楽の可能性を模索してざまざまな表現にチャレンジしてきたことが"なんとなく"でも感じられるとあの長い曲たちを聴くのがたのしくなってきた。
今の所のお気に入りはコレッリ、ドヴォルザーク、シェーンベルクです。


ササキトモコ → ひなビタ → ここなつ ← PSB

ササキトモコ

敬愛する作曲家にササキトモコという人がいる。Serani Pojiの中の人。
「shopping mania」などは耳にしたことがある人も多いと思います。

(ほんとは『まなもぉん』というアルバムを紹介したかったがapple musicにはなく…「僕のマシュ…」は名曲)


ひなビタ

そのササキトモコが楽曲提供をしている『日向美ビタースイーツ(通称:ひなビタ)』を最近聴いてます。『ひなビタ』自体は正直今だにどんなコンテンツなのか分かってないです。美少女キャラのバンドということは分かっている。

ひなビタ♪』は、2012年11月14日より開始されたコナミデジタルエンタテインメントによるWeb連動型音楽配信企画。

wikipedia

だそうです。♪が要るようです。
『ひなビタ♪』の楽曲はキャラソン感が強いですが面白い曲多いです。ササキトモコ作曲の『温故知新でいこっ!』は名曲です。セラニっぽさもあり、bossaな空気とウィスパーボイスのマッチ、口づさみたくなる独特のメロディは流石です。


ここなつ

『ひなビタ♪』の派生?で『ここなつ』というアーティストが出てきます。この『ここなつ』の音楽がいいんですよ。エレクトロ系で『ひなビタ♪』よりはキャラソン感が薄く聞きやすいです。声優さんが声を作って歌ってるのでアニソン感はある。


PSB

一旦話は逸れて
Serani Poji(≒ササキトモコ)の曲を聴いてるとおすすめでPlus-Tech Squeeze Box(=PSB)というアーティストの曲が流れてきた。SeraniもPSBも同時代で渋谷系の流れにある音楽。
PSB『cartooom!』というアルバムの完成度が非常に高く度肝抜かれた。カートゥーン音楽をベースにサンプリングで刻まれるビートは引くほどかっこいいです。『Dough-Nuts Town's map』は聴いたことある人多いと思います。

Serani も PSB もビートがたまらないですね。欲しいところに来るというか、ピッタリジャストで"これ以外の可能性を感じさせない"ハマり具合が素晴らしいです。


ここなつ2.0

話が戻ってきて
先ほど出てきた『ここなつ』には事情は知りませんが『ここなつ2.0』というバージョンアップされたものがある。このアルバムが全体の楽曲のクオリティが高くヘビーローテションをしている。元の『ここなつ』よりもアニメ感が薄くより一般的にオススメできるアルバム。

このアルバムのトップの『コスモランデヴー』の作詞・作曲のハヤシベトモノリ氏が実は先に紹介したPSBのメンバーでもあったのだ。ササキトモコ氏から伸ばしていった触手が一方は渋谷から、一方は美少女から輪を描いて触れ合った瞬間である。

ダラダラと書いて何が言いたいかというと、人の好きなものセンサーというのは思っているよりも敏感というか、抗えない"狭さ"みたいなものがあるのだと実感した(いい意味です)。

上のアルバムはエレクトロ系の有名なアーティストが楽曲提供してるみたいです。自分はあまり詳しくないので、ここを発端に触手を伸ばしてみたいです。



*以降はちょい批判?気味の内容なので注意。特にVaundyとYOASOBIのファンは注意。音楽オタクでもない人間が妄想的思弁で話してるだけなので、気にしなくてもいいかも。

Vaundyへの違和感の元?

最近リリースされたVaundyの『replica』というアルバムを聴いた。
Vaundyの曲はこれまでも耳にする機会が多く、曲のクオリティ?というかハイレゾな感じに「はえ〜」と思うことはあれど毎度「なんか聴いたことあるな」という感想に至ることが多かった。

先に言っておきますが、自分はVaundyをパクリ野郎だ!とかいう気は全くないし、彼の作品群がパクリとも思わないです。

『replica』として30曲程度をしっかり聴いてみると、単発で聴いていたよりも余計に既視感ならぬ既聴感が強まった上に「なんだか薄いな」とさえ思ってしまった。楽曲の作り込み自体は悪くない気がするのになんでだろう。自分が若くないから新鮮に聞こえないだけなのかな?と思うも、この違和感はそれだけじゃない気がした。

調べるとパクリ疑惑の話題がずらずら出てくる。『不可幸力』が桑田だ『chainsaw blood』がマイケルだ、という話題がずらずら。確かに「なんか聴いたことあるな」のもとはリファレンス元にあるかもしれない。

でもフリッパーズギターでも大瀧詠一でも、それこそ桑田でも、パクリだ!パクリだ!と言われてリファレンス(引用元)も見つかってる邦楽の重要なアーティストだって多い。Vaundyだっていずれはその内に数えられるかもしれないじゃないか。
でも、今のままではそうはならない予感がする。その予感、違和感の大元は「Vaundyの薄さ」だ。まだ彼の音楽にはどことなく薄さを感じる。

じゃあ、その薄さってなんなのってのを考えてみた。結果、それはVaundyのボーカルに要因があるんじゃないかと。一体彼のボーカルの何が薄さを出すか。

歌が下手というわけじゃない。しかし、自身の器用なソングライティングに完璧に合わせられるほどの歌唱の器用さは持ち合わせてないように感じる。
ソングライティングは器用だ。見事にレプリカしてるのだとは思う。一方歌唱の方はレプリカしきれていない。確かに多様な歌唱法を使ってはいるが使いこなしているようには思えない。標題曲「replica」の中間部のシャウトなどを聴いてほしい。お世辞にも使いこなしているとは言えないだろう(ヴォーカルのミックスが悪い、という場合もある)。

楽曲のレプリカ度と歌唱のレプリカ度の差によってVaundy自身が薄切りになってしまうのではないか。特にたくさんの曲を聞けば聴くほど、中心にいるはずのVaundyがより薄切りになってしまう。
Vaundyはリファレンス元に自分の歌唱も合わせていってしまう。Backingに自分を合わせている状態だ。しかもレファレンスが色濃く残ったBackingに。
完全に歌唱を合わせられないので曲に不和が出る。

先にあげた、フリッパーズ、大瀧詠一、桑田佳祐などとの大きな違いはそこにあるんじゃないか。洋楽をリファレンスとして持ってきても彼らはBackingに自らの歌唱を合わせたのではなく、自らの歌唱にBackingの方を合わせていったのではないか。
フリッパーズギターの二人のあの下手くそな英語や、小沢健二のナルシスティックな歌声。大瀧詠一の歌謡曲的な声。桑田のエセ外国語。洋楽に寄せていく痕跡はあれど、彼らは自分たちの逃れられない歌唱の癖に合わせてBackingを調整していったのではないか。
歌唱という身体的な個性(創作的な個性でなく)が中心に残ったまま、Backingがその周りに伴う形で楽曲として形をなしたのではないか。だからこそリファレンスの色が濃く残っていても中心にいる人間がそこに依然と存在しているのではないだろうか。

Vaundyは歌唱(身体的個性)をBacking(レプリカ)に寄せていってしまう。曲が作られ、レプリカを作るたびにVaundyの身体が薄くなる。Vaundyへの違和感「薄さ」の正体がここにあるのではないか。軽薄だと言いたいのではない。

以下の記事に近いことが書かれている。面白いのでぜひ。

この記事の(後半)に哲学者の千葉雅也氏の言葉を引用し、Vaundyがポストモダン的なミュージシャンなのではないかと位置付けるが、自身も現状のVaundyの中心の無さ(薄さ)はポストモダン的?脱中心的なのではとは思う。Backing(背景)に歌唱(中心)が合わせていくところはまさに。

ただ、まだその脱中心的なスタイルが「面白い!」と言わせるほどの領域ではないように思うしVaundyがどこに向かっているのかは知らない。

因みに日本には脱中心的な音楽の最先端があって、それがボカロだと思ってます。この話は今しません。


YOASOBI的なアニソン歌詞の"微妙な暗喩"

『推しの子』なり『フリーレン』なり『スパイファミリー』なり、最近はガッツリ歌詞の中に作品を匂わせる、というかそれ以上に踏み込んで作品内容を表現するようなアニソンが多くなっている印象。それが個人的になんだか気になっている。警戒している。それはアニメ作品のあり方として。

それ以前のアニソン歌詞では『るろ剣』の「そばかす」ほどではないとしても、そこまで踏み込んで"作品専用の歌詞"にしていたかと言われると微妙に頷けない。『ハガレン』の「メリッサ」でも『ナルト』の「Blue Bird」でもなんでもいいのだが、歌詞の中に託された作品要素の度合いというものは昨今よりはひっそりとしていたように思う。

YOASOBI的な歌詞表現も時代の流れでSNS時代にはそういう方がウケるというのもわかる。「ここの歌詞は作中のあの表現のことを言っていて、あれはあれを言っていて、原作勢にしか分からんよなぁ。たまらん」
作品の内容をあけすけに歌詞にすることも別に悪いことではない、というか、『ゲゲゲの鬼太郎』でも『ドカベン』でも『マジンガーZ』でも遡ればもっと説明的な歌詞は出てくる。ただ、個人的にはYOASOBI的歌詞とマジンガーZ的歌詞には違いがあると思っている。

それは暗喩度だ。YOASOBI的歌詞は"微妙に暗喩化"されている。この暗喩化によってyoutubeのコメント欄やXの投稿が賑わうのは間違いない。先にも書いたけど、「ここの歌詞は作中のあの表現のことを言っていて、あれはあれを言っていて、原作勢にしか分からんよなぁ。たまらん」と、歌詞を聴いたファンたちに当てっこゲームをさせることができるし、誰よりも早く、よりよく芯をついて当てたい!という欲を掻き立てる。
「そう!その大喜利的消費をさせる作品のあり方がよくないのだ!」ということを言いたいわけではない。それはそれで楽しんでください。じゃあ、”微妙に暗喩化”されているアニソン歌詞に対して自分が何を警戒しているか。

それは、暗喩が微妙なのでほとんど同じような答えにみんなたどり着いてしまう、辿り着けない人がいてもコメント欄にあるいいねの多くついた解釈を正解だと思わせる力が働くことだ。
微妙に暗喩化されているからこそ解釈を一定にさせる力が働いている、そう見えるのが気になる。それを「公式の歌詞」として提示されてしまうこともさらに。このアニメはこういう風に見てください、と言われている感じがする。

作品とはもっと個人個人に余白のあるものであって欲しい、というのが自分の価値観なので気になってしまう。いかんせん微妙に暗喩化されてることで自分は作品に向き合って解釈した、と感じさせてしまうだろう所も。

こんなのは少数派の意見だと分かっています。そもそも大衆アニメの歌詞にに何小難しいこと言ってんだって話ではあります。

この解釈を一定化させる力はボカロMVの中でも働いている。ボカロMVは基本的にリリックビデオであり、歌詞が表示されるが、昨今のものは文字にモーションがついており、拡大縮小回転移動、と歌詞の価値に差をつける動きがついている。程度は弱いがこれも一種の解釈の一定化に見える。「この曲の聞きどころはここですよ」とMVに言われている気分だ。なので、ボカロはMVを見ないで聴いてますし、そっちの方がいい曲に聞こえる(個人の感想です)。

歌詞基盤の音楽展開をしているYOASOBIとボカロMVのモーションリリックの解釈一定化の力は無関係なものではないと思います。(ayaseがボカロ出身だからとかとは違う次元で)

まあただ、もっと昔の吟遊詩人などを考えれば歌と動きで盛り上がる場所を作っていたのかもしれないし、音楽だけ取り出して聴く、ということの方が特殊ではあるのかもです。そういう意味ではリリックビデオはボーカロイドの身体的側面なのかもしれないですね。


たまには音楽のことを言語化するのも楽しいですね。頭が鍛えられます。


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