五条悟について

 タイトル通りの記事です。記事を書こうと思った動機や夏油傑についてはこっちの記事で述べているのでよければそちらも読んで。


五条悟と親友

五条と夏油は互いを親友と認識していた。夏油が親友として五条の傍にいた理由は上記記事で書いた通り、自身の手で五条を導こうとしていたわけだが、五条の側は夏油をどのように認識していたのか。

 私は、五条は「他人の感情や善悪、社会的な規範などが理解できない自分の欠落を補ってくれる存在」として夏油を求めていたのではないだろうか。

 作者自身はファンブックにて「五条は夏油を善悪の指針にしていた。」と語っていた。実際高専時代の五条は夏油と違いそういったものを軽んじているように見られるが、そもそも五条は普通の人間が持っていてしかるべき規範意識や感情といったものが非常に希薄だ。

 自身の判断ミスによって封印され、その結果仲間が危険にさらされたにも拘らず、焦りや後悔といった感情は見せず、「なんとかなるか」という、ともすれば無責任ともとれるような反応をしている。

『呪術廻戦』 11巻 69ページより

 その他にも、五条はたびたび人間的な感情からかけ離れた表情を見せることがある。

 もちろん感情がまるっきりないわけではない。作中でも喜怒哀楽は見せているし、何より死んだはずの夏油(羂索)を見た際のリアクションからもそれは明らかだ。

 だが本人が語っているように、五条は他の人間と自身との間に明確に一線を引いている。

週刊少年ジャンプ 2023年43号 209ページ

 これは他人に自分の心情は理解できないという文脈だが、当然五条の側も花の気持ちなどはわからないだろう。

 またファンブックにて五条が普段している目隠しやサングラスについて「六眼を持つ五条は目隠しをしていたとしてもサーモグラフィーのように呪力が見える。逆に目隠しをしないと脳が疲れやすくなる。普通の人が五条のサングラスをかけるとほぼ何も見えない」と説明されている。このように日常的に視覚を制限し、他者の表情が見えない生活を送っているあたりあからも、彼がコミュニケーションや相互理解というものから縁遠い人生を送っているのだろうと推察できる。

 そんな五条にとって、夏油傑との出会いはさぞ衝撃的だっただろう。歳も性別も同じで何より自分と対等な実力を持つ、そんな誰よりも自分に近いはずの存在が、他者との間にあるはずの隔たりを気にも留めず「呪術は非術師を守るためにある」などと言うのだ。その上、彼の主張は五条が人生で初めて耳にするものだっただろう(同じ御三家の禪院家があれだし)。彼の実力も相まって、その突飛な信念を特別な人間であることの証左とみなしてもおかしくない。

 そして、それだけ特別な存在が、人の心や善悪といった自分の苦手分野に対して明確な価値観を持っているのなら、自分はそれに従うべきだろうと考え、彼を”指針”に据えた。時には夏油の考え方にケチをつけることもあるが、それは五条からすれば「他人の気持ちがわからない俺の苦労も知らないで」という風に少しイラっとした、程度のものなのだろう。実際に夏油の信念に反する行動はしていないし、盤星教の信徒たちを殺すかどうか、判断を夏油に委ねている。

 こうして夏油傑は五条悟の親友となったが、その関係も天内理子の一件を機に変わっていく。前回の記事で、「夏油傑は、五条悟と対等であることが彼の親友であるための条件だと考えており、五条が自身を突き放して強くなった事実に絶望した」と書いたが、五条の側はそんな夏油の思いなど想像すらできなかっただろう。五条にとって夏油傑が常に隣にいる隣にいるのは当たり前のことであり、今は一時的に自分が先を歩いているだけですぐに追いつくと考えていた。あるいは人生で初めて”成長することによって難敵を倒す”という経験をして力の研鑽をかつてないほど楽んでいた彼は、そもそも自身が親友を置き去りにしていることに気づいてすらいなかったかもしれない。

 ここにきて五条は、人の感情の理解をすべて夏油に丸投げしてきたツケを支払うことになる。「自分は夏油に従えばいい」というのは夏油が絶対にぶれることがない前提で成り立つものであり、夏油本人が揺らぐとき、感情的に欠落している五条がそれを支えることはできないのだ

 結果として、五条は夏油と袂を分かつこととなる。道を示してくれる存在を失った五条は、自身の中に夏油傑をトレースした指針を持つようになった。その影響が一番わかりやすく表れているのは一人称の変化だろう。夏油から他人に威圧感を与えることを考慮して、一人称を「私」あるいは「僕」に変えるよう勧められた際には「嫌なこった」と返しているのに対し、夏油離反直後に幼少期の伏黒と会った際にはあっさりと「僕」に変えている。

 夏油が傍にいた際には彼が自分と他者の間に立ってくれるから自分が他人に与える印象など考える必要がなかった。しかしもう彼はいない。だから五条は(自分の中の)夏油傑の忠言に従った。

 また、渋谷事変にて五条が一般人の犠牲を嫌ったのも夏油の影響だろう。渋谷で特級複数体と戦闘になった彼は、大技を用いれば敵を殲滅できたにも拘わらず、一般人を巻き込むからとそのような手段はとらなかった。結果、五条は封印される。

 SNSではこの時の五条の判断ミスを批判する声が多いように感じるが、私としては、自身の手で一般人を殺すという手段をとることはこの時の五条悟には絶対にできないものであり、ミスというようなものではなかったと考える。なぜ一般人を殺すことができなったかと言うと「呪術とは非術師を守るためにある」からだ。

 高専時代の夏油の価値観を自分の中の規範とした彼は、常にその規範から外れることのないように歩んできた。それが強大な力を持ちながらも倫理観や善悪の意識が希薄な自身を”人間”の枠に押し込む方法だったからだ。そして夏油傑ならば決して非術師を自分の手で殺めることなどしないと学習している彼は、最初からその選択肢を除外している。

 無論、五条とてバカではない。敵に自分を封印するだけの策があることを事前に察知していれば、周囲の非術師を犠牲にしてでも敵を即座に殺していただろう。五条悟が敗れれば日本、あるいは世界中の人々が危険にさらされるから。しかし、そのような”もしも”を考慮しろというのは難しいだろう。敵は特級呪霊複数とはいえ、現代最強の術師は、自身に制約を課してなお敵を仕留めるだけの実力を持っているのだ。時間はかかるが地下5Fの一般人も何人かは助けられる。それにも拘わらず。その何人かすら切り捨てるのは夏油傑の信念に反する。

 そして何よりも重要なのが、五条は夏油傑の信念に基づき、夏油本人をも処断しているということだ。五条悟が敗れるなどという現実的ではない可能性を警戒して非術師を犠牲にするというのは、夏油の意志に背くことであり、たった一人の親友すら手にかけた過去の行いを自身の手で無意味なものに変えてしまうことになる。五条の中に非術師を殺すなどという選択肢は最初からなかった。

 これらの点から、五条悟にとっての親友が単に”親しい友”というだけではないことがわかる。夏油傑は人外たる自身を人たらしめてくれる唯一無二の存在であり、変節した友に代わりその意志に殉じるのが五条悟の生き方なのだ。


五条悟と諦念

 五条悟に触れる上でもう一つ書いておきたいのが、作者が述べた「五条悟は諦念の人」という点だ。これだけで五条悟の主観で見た彼の人生がどういったものだったのか、想像がついてしまう。

 生まれた時から他者との間に境界を見出し、それを当たり前のものと受け入れて生きてきたところに、ついにその一線を踏み越えて来てくれる親友と出会う。”五条悟が最強”なのではなく”二人で最強”となった青春時代は唯一孤独を忘れられた瞬間だっただろう。だが結局はそんな親友も線の向こう側に消えてしまう。夏油から「君にならできるだろ、悟」と言われた際の五条の心境はどのようなものだったか。「俺たちは二人で最強なんじゃないのかよ」という怒りを覚えると同時に自分が新しい力に夢中になっている間に対等だったはずの親友すら置き去りにしてしまったことを悟っただろう。この瞬間から五条は「自分と他人は明確に違う生き物である」という認識を深めていっただろう。あるいは夢から醒めて現実に戻ったと言うべきかもしれない。

 そんな五条悟は、確かに「諦念の人」だろう。普通の人間はうまくいかない現実に直面すると「自分にもっと力があれば」と考えることがある。しかし五条悟は誰よりも強い力をもっていても苦悩していたし、誰よりも強い力を持つがゆえに大事なものを失った。現実は思い通りにいかないことを誰よりも正しく理解しているだろう。

 それゆえに何か残念なことがあったり、事態が悪い方向に向かったりしても後悔や自責の念を滲ませることがほとんどない。現実とはどうしようもないものであり、彼はその事実に対して受け身をとることが異様にうまくなってしまっているからだ。

 時折、五条を指して無責任と評する読者が見受けられるが、そのように見える彼の根底にあるのはこういった”諦念”だろう。自分が他者とは違うという事実と折り合いをつけ、親友との離別も受け入れた彼は、七海の死や恵の肉体が宿儺に乗っ取られたことに対しても、「そうなってしまったものは仕方がない」と考えてしまう。今更いくら自分を責めたところで何の意味もない。意味がないことのために感情を動かすような青臭さは、親友と道を違えたときに失ってしまったのだろう。


五条悟の結末

 五条悟は最終的に両面宿儺との戦いに敗れ、命を落とすことになるわけだが、その間際にかつての仲間たちと出会う。そこで彼は夏油に対し、宿儺との戦いが楽しかったことを吐露する。

 ずっと最強であり続け、自分と対等と呼べる相手はおそらく夏油と甚爾の2人しかいなかっただろう。その二人についても、もはや今の己に並び立てるような存在ではない。これから先も孤独であり続け、最終的には老衰や病によって死ぬのだろうと考え、その人生に漠然と不満を覚えながらも受け入れていた。そんな中、期せずして自身にとって唯一強敵と呼べる相手と戦うことができた。全盛期である自分の力のすべてをぶつけることができた。

 五条悟の孤独を理解している夏油は嬉しそうに語る五条に対して、「君が満足したならそれでよかったよ」と告げる。それに対し五条は以下のように語る。

週刊少年ジャンプ 2023年43号 211ページ

 ここまで五条と夏油の関係にふさわしいセリフがあるだろうか。先ほど述べたように、彼はいろいろなことを「仕方がない」と諦めてきた人間だ。そんな五条悟にとって、最期に自分より強い相手との戦いを心から楽しめたというのは十分すぎる報酬だっただろう。

 それでもなお、夏油との離別は諦めきれなかった後悔として五条の中に残り続けていた。その重さを考えると、本当にこのセリフが刺さる。呪術廻戦の作者はこの手の人間ドラマが上手すぎる。

 この時点で大満足なのだが、話はここで終わらない。七海と灰原が姿を現す。「お前の最期はどうだったんだ」と問いかける五条に対し、七海は虎杖に呪いをかけることとなった最期について、「呪いが人を生かすこともある。悪くない死に様だった」と語る。これが五条にとっては衝撃だった。

 五条の死後、宿儺は「強さとは孤独なのか」と問う鹿紫雲に対して「俺たちは強いというだけで他者から愛され、愛に応えている」と答える。七海の言葉を聞いた五条は、そのことに気づいたのだろう。強さという呪い故に自分は孤独だと思っていたが、強いからこそ親友に出会えたし、強いからこそ生徒たちにも頼られ、慕われていた。

週刊少年ジャンプ 2023年43号 216、217ページ

 それに気づいた五条は、仕方がないと受け入れるのではなく、ましてや悔いを抱えるのではなく、満足して死ぬことができたのだろう。

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