ラノベは「人生いかに生きるべきか」を考えていないのか?

荒川佳洋氏のあるツイートに対して、批判が殺到しているらしい。問題になっているのは、以下のツイートである。

女性の売れっ子ラノベ作家と話したおり、かつて小説が、読者にたいする役割として持った人生の指針、「人生いかに生きるべきか」といった要素は、ラノベにはあるのかという質問に、ありませんとの答え。作家が編集者とやる企画会議でも一切出ないと。この一点が60年代ジュニア小説との歴然たる違い。

ライトノベルへの批判として捉えている者が多いが、これは批判ではない。イデオロギーとして示されていないものをイデオロギーとして捉えたことによって、批判と誤読してしまっている。また、多数的傾向として記されたことをすべてに当てはまる傾向として捉えると、やはり誤読が生じる。

批判は実証性を伴うべきである。批判者のうち何人が、富島健夫氏の小説を読んだことがあるのだろうか?(ちなみにぼくは、富島健夫の『女人追憶』を全巻読破している)

荒川佳洋氏が言っていることは、こうである。

1960年代の多数的傾向
・「人生いかに生きるべきか」ということが企画会議でも出た
・「人生いかに生きるべきか」ということが、小説の中の(重要な〕要素であった
・(氏の指摘を補うなら)、恐らく1960年代の書き手は、「人生いかに生きるべきか」ということを強く意識して物語を書いていたし、「人生いかに生きるべきか」という指針や苦悩が、作品に顕在的に表れていた。

1960年代は学生運動真っ盛りであり、学生たちも「よりよき未来」に向かって猛進している頃だった。だからこそ、「人生いかに生きるべきか」ということが重要な要素として、テーマとして、作品に盛り込まれたし、企画会議でも語られたのだろう。この時には、まだ「大きな物語」は生きていた。時代はポストモダンではなかった。

2010年代の多数的傾向
・「人生いかに生きるべきか」ということは企画会議でも出ない
・「人生いかに生きるべきか」ということは、小説の中の要素にはない
・(氏の指摘を補うなら)書き手は「人生いかに生きるべきか」ということを強く意識して書いているわけではない。

これはつまり、こういうことである。

・「人生いかに生きるべきか」ということは企画会議でも出ない⇒「人生いかに生きるべきか」ということは、主要な討議のテーマではない。

・「人生いかに生きるべきか」ということは、小説のテーマにはなっていない

人生いかに生きるべきかとは、我々は人生をいかに生きるべきか、ということである。「我々」と複数になっているところに注意してほしい。2010年代では、「我々は」ではなく、「おれはどう生きるべきか」に変わっている。

少し脱線するが、2010年代はすでにポストモダンであり、「人生いかに生きるべきか」というテーマを大上段に振り構えることができない時代である。1960年代にはまだ近代(モダン)の気配が残っており、大きな物語が生きていた。国家や社会にとっての大きな物語は、「(我々は)人生をいかに生きるべきか」というテーマとつながっていた。大きな物語があったからこそ、「我々は人生をいかに生きるべきか」ということがテーマとなったのだ。

大きな物語は、正義ともつながっていた。1960年代には「正義」が確固として存在しているように思えることができたが、相対化が進んだ今では、確固としたものとして正義を感じることが難しくなっている。その時代変化は、1960年代のジュニア小説と2010年代のライトノベルに刻印を残しているはずである。

改めて2010年の多数的傾向を提示する。

・「人生いかに生きるべきか」ということは企画会議でも出ない
・「人生いかに生きるべきか」ということは、小説の中の要素にはない
・つまり、書き手は「人生いかに生きるべきか」ということを強く意識して書いているわけではない。

しかし、このことは、今の書き手が「人生いかに生きるべきか」ということをまったく考えていないということではない。強く意識しているわけではない、強く念頭に置いているわけではないということ。

「強く」ということ、「強く意識」ということがポイント。ここを誤読すると、「ラノベ作家は、(人生いかに生きるべきかを)まったく考えていない軽い書き手だというのか!」と激昂することになる。Twitterでの批判の多くは、不正確なリーディングから発生する。

多くの作り手が知っているように、作り手の内面は、作品の中に自然ににじみ出ることが多い。「人生いかに生きるべきか」という内面性を作り手が持っていれば、それは作中ににじみ出る可能性が高くなる。

ただ、その表れ方は、1960年代ほど顕在的ではないだろう。つまり、主役として顔を出すことはないだろう。また、人生いかに生きるべきかという葛藤が主要なテーマとなることも、あまりないだろう。

荒川氏の指摘を捉え直すと、こういうことになるだろう。

1960年代のジュニア小説では、「人生いかに生きるべきか」ということは主要なテーマとして表舞台に立っていた。だが、2010年代のラノベでは、「人生いかに生きるべきか」は表舞台から立ち去り、背景になっている、あるいは背景に溶け込んでいる。

荒川氏は「人生いかに生きるべきか」という要素やテーマが強く表れていないからといって、その作品群に価値がないということは一言も発していない。

1960年代にはこうだった。今はこうである。その違いから1960年代のジュニア小説の特徴を指摘しているだけである。「人生いかに生きるべきか」ということへの扱いがどのように違っているのか、それを指摘して、1960年代のジュニア小説の特徴を抽出しているだけである。

だが、「ラノベは常に大人たちによって批判されている!」という意識を強く持ちすぎてしまうと、差異の指摘や特徴の指摘を誤って批判として捉えてしまう。多数的傾向をすべてに対しての発言と勘違いしてしまう。

荒川氏の意識は1960年代のジュニア小説にある。なので、荒川氏には、そもそもラノベを批判するということに関心はないように思われる。

ただの差異の指摘だと捉えることができれば――そして多数的傾向の指摘だと捉えることができれば――なかなか面白い地平が切り開ける。

「人生いかに生きるべきか」というテーマが表舞台から去って背景へと溶け込んでいくのは、いったいいつからなのか。その辺りを探ってみるのも、文学史的には興味深い問題である。

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鏡裕之

作家。ゲームシナリオを書いて24年。中世国際政治が舞台となるゲームをつくっています。高校生が城主になって活躍するラノベも書いてます。ゲームシナリオのハウツー本も書いています。拙著『非実在青少年論』の中で、東浩紀のデータベース消費を乗り越えるウロボロス消費を提唱しています。
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