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子供を置き去りにした両親は人間ではない?

小学2年生の子供を置き去りにした両親が、Twitterで叩かれている。ぼくは、そのバッシングに対して違和感を覚える。叩く人たちが、重要な事実を認識しないまま、「しつけ」という言葉にロボットみたいに反応して叩いているからだ。

当初、朝日新聞デジタルの記事には

「小石を人や車に投げつけるなどしたため、両親が「悪いことをするとこうなる」という意味で、同日午後5時ごろ、現場の山道で大和君を車から降ろした。」

と記されていた。

「小石を人や車に投げつけるなどしたため」
「悪いことをするとこうなる」という意味で」

という2つの重要なことが記されていた。だが、それ以降、すべてのニュースソースにおいて、

「しつけのため」

と一言で要約されてしまった。

「事実と違う説明、父親「世間体気にした」という、別の朝日新聞デジタルの記事でも、

「言うことを聞かなかったことがあり、しつけとして置いてきた」

と要約されてしまっている。

「小石を人や車に投げつけるなどしたため」
「悪いことをするとこうなる」という意味で」

この場合には、具体的状況が読み取れる。だが、

「言うことを聞かなかったことがあり、しつけとして置いてきた」

これでは具体的にどんな状況だったのかがわからない。ただ、しつけで置いてきたというようにしか読み取れない。結果、

しつけのため?
しつけで山に放置かよ。
馬鹿か。
罪を償え。

という怒りの断罪がツイートで頻出した。まるで日頃の鬱憤を晴らすかのように――。

マスコミが報道記事から具体性を剥ぎ取り、「しつけ」という一語に勝手に要約しために、要約に反応してバッシングする人たちが大勢生まれてしまったのである。

今一瞬だけ人道主義者になる人たち、今一瞬だけ正義漢になる人たちが量産されたのだ。

報道において要約するのは危険である。要約すると、具体的な状況が消え去り、バッシングの格好の材料を与えるだけになってしまう。

両親を叩いている人たちの中には、「人間じゃない」と切り捨てている人もいる。人道主義の観点からの断罪なのだろう。

でも、作家から見ると、徹底的に人間である。

小石を人や車に投げつける子供。
その我が子を懲らしめようとして、やりすぎてしまった両親。
そして、世間体を気にして、「子供が迷った……」と思わず嘘をついてしまった両親。
捜索隊が組織され、事が大きくなって、うろたえ、謝罪した両親。

まさに人間の姿。
徹底して人間の姿である。

「父親はよくインタビューに答えたな」と呆れている人もいるが、ぼくは、映像に示された父親の目の色――焦燥と動揺の色――を見抜けない人たちに、むしろ呆れる。

やりすぎた。
なんで置いてきてしまったんだろ。そんなにやらなくてもよかったのに。
こんな大事(おおごと)になってしまった……。

そういう目の表情だった。

きっと、最後に自分たちの目に映った子供の姿を何度も何度も再生して、苦しんでいるのだろう。

その姿、その目の色は、まさに人間である。

ぼくは、両親の行為が弁護されるべきであるとか、正当であるなどと言いたいわけではない。

ただ、具体的な状況を知らされずに要約を知らされただけで、自動的に反応するのはやめなさいと言っているだけだ。

家族には家族の積み重ねがある。どんな積み重ねから今回の事件になったのかは、今のところ、両親以外誰も知らないのだ。知らないにもかかわらず、みんながみんな、道徳的裁判所となり、一斉に断罪する気持ち悪さ。

人道主義の仮面をかぶっていれば、知らなくても叩いてよいということではない。ぼくらはいつから、こんなに道徳マシーンになってしまったのだろう? どうして知らずに裁いてしまうのだ?

今の北海道の山で子供を置き去りにする危険性について無知であったことは、両親は非難されても仕方がないだろう。だが、現時点で非難できるのはその無知であって、人道性ではない。人道性や人間性に対して非難できるのは、もっと状況が詳らかになってからだ。詳らかになれば、逆に同情する形、同情の上で「でも……やっぱりやりすぎたよね……わかるけど」となる可能性だってある。

さて、この記事に対して、要約だけで反応している人たちはバッシングするのだろうか? バッシングの対象に、この記事の著者も追加するのだろうか?

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