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京アニを麻薬の売人以下と評した、麻薬の売人以下の教授

「麻薬の売人以下」と誹謗中傷をやらかした大阪芸大哲学科教授・純丘曜彰(1962年生まれ、東大卒)の元記事を魚拓で確認した。

彼の主張には、京アニに対する蔑視、オタクへの差別的&マウント的な視線が含まれている。80年代から使われてきた「オタク=犯罪予備軍」という誤った考えを援用した、とんでも理論も含まれている。以下要約開始

・京アニという会社自体が、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき学園祭の前日を繰り返しているところ

・京アニは学園物、高校生のサークル物語、友だち話をつくり、終わりなく次回作の公開に追われつづけてきた。

・創立から40周年、経営者がずっと同じというのも、ある意味呪われた夢のよう

・学園物がヒットしたのは、いい年をしたアイドルが、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンをたぶらかすのと似ている。

・学園物は、中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いじめや引きこもりで中高の共通体験を持てなかった者が、精神的に中高時代に留まりつづけるよすが(つまり、大人になることを描かない物語)。

・夢の買い手(すなわちオタク)がいつまでもおとなしい買い手でいるはずがない。学園祭体験を求めるファンは作品に心酔し、グッズを買い集め、聖地を巡礼し、作り手の領域に踏み込み、自分こそ学園祭の一番の主役であると思い上がり、その思いを拒否された途端、凶暴な側面を見せる

・人生がうまくいかなかった連中は、一発逆転を狙って失敗する。そして逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロに走る。

・いくら経営が安定していたとはいえ、偽の夢(『ビューティフル・ドリーマー』のように絶対に誰も入れない隔絶された世界)を売って弱者や敗者を搾取しつづけるのは麻薬の売人以下

・アニメ業界全体、作り手たちが夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。

・あれだけの惨事を目の前にして、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることが異常

・仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、現実に爪を立て、夢の終わりの大人の物語を示すことが、供養になる

要約終了

つまり、京アニを麻薬の売人以下と唾棄してみせた哲学科教授は、

・学園物は大人になることを描いていなくて、精神的停滞を示している。気持ち悪い
・大人になることを描かない物語をつくって商売するのは、麻薬の売人以下
・大人になることを描かない物語を享受している者は、作品が自分の願いと食い違っていれば牙を剥く
・グッズ収集も聖地巡礼も、大人になることから離れていて気持ち悪い

と言っているのも同然なわけで、学園物というジャンルに対するdisりとマウント、京アニに対するdisりとマウント、オタクに対するdisりマウント以外のなにものでもない。聖地巡礼を研究している学者に対しても、はなはだ失礼。

京アニの社長に対しては、失礼を通り越している。京アニの社長がずっと代わっていないことを「ある意味呪われた夢のよう」と表現しながら、よく「供養」なんて言葉が口にできるよね。業界で最もホワイトな会社を運営し、女性スタッフにも配慮した会社を維持してきた社長に対して――今、世界で最も悲嘆に暮れている社長に対して――何も知らないくせによくもあれだけdisれるよね。このタイミングで。正直、教授の人間性が麻薬の売人以下

この哲学科教授の根っこには、

学園物は幼稚
大人になる物語を描いてこそ物語なのに、それがない。だから幼稚。気持ち悪い。
そんな学園物を楽しんでいるオタクも幼稚&気持ち悪い


という、麻薬の売人以下の脳味噌と精神が透けて見える。

正直、「オタク=犯罪予備軍」という誤った80年代的考えを踏襲して、そこに学園物への個人的なdisりをまき散らかしただけの代物で、一読に耐えるものではない物語に対する個人的な価値観を押しつけて、京アニやオタクに対してマウントしとるだけ。「成熟/未熟」という軸でオタクを断罪している時点で、脳味噌が80年代。80年代において「おれたちは成熟」「オタクは未熟」という分け方でオタクがdisられたが、それとまったく変わっていない。京アニに対して40年間社長が代わっていないと批判しているようだが、この教授の頭も80年代からほぼ40年間、変わっていない

東大を出たのか大学教授だかよう知らんけど、

人の趣味をdisるな
人の趣味にマウントするな
人が大切に思っているアニメ会社をdisるな

この無礼者、と申し上げたい。

学園物を「終わらない日常」として捉えるのは宮台氏の影響を受けているのかもしれないが、「終わらない日常」から「精神的停滞≒幼稚さ」へとつなげて批判するのは、正直頓珍漢だし、本人が幼稚すぎる。

美学はわかってもエンターテインメントはわからない1962年生まれの頓珍漢な学者のために解説すると、アニメなどのエンターテインメントは、それを楽しむ人の心理的な受け皿となっている部分がある。

学園物も一つの受け皿。

大人にならない物語には、それを受け皿とする人たちが大勢いる。

学園物とは、資本主義的な残酷さ・厳しさに直面する前の世界のこと。資本主義のいやな側面をまだ見なくてもよい世界である。そしてその世界は、社会人となって資本主義的な残酷さに直面して疲弊している人たちに対して、ほっと一息つく世界、癒しの世界となっている。

同世代にとっては、教室で味わう殺伐とした雰囲気から逃れて一息つくための物語になっているのだろう。

物語の受け皿という機能・側面すら知らずに偉そうに批判するのは、ただの浅学非才。「ガキの学園祭の前日」と批判している教授こそ、知的にガキなのである。

大学教授は専門馬鹿、ということがよく言われる。これ、「専門以外馬鹿」と言った方が近いのよね。その典型例。

差別的なマウント教授には、こんなふうに関西弁で返そうと思う。

「アニメの物語が大人になる姿を描くべきって、あんたアホか?  学園物を精神的停滞と捉えている時点で、あんたの精神も停滞しとるわ。 自分の好き嫌いしかないくせに、何を偉そうなことを言うとんねん。物語の受け皿って機能も知らずに、何言うとんの? あんた、麻薬でも吸ったんちゃう? 麻薬の売人以下の脳味噌で偉そうに言うの、やめてくれる?」

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