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「どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」に、疑問符はない

 日本文学振興会のキャッチコピーが、バッシングされていた。問題になったのは、次の箇所だ。

「文学を知らなければ
 どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」

 この部分に対して、アニメファンたちは、年老いた大人たちがアニメを低視する姿、何かあるとアニメをバッシングする姿とを重ねて抗議した、という形だ。

 凶悪な事件が起きるたびに、いつもアニメやマンガやゲームが槍玉に挙げられてきた。マスコミはいつも、アニメやマンガ、ゲームとの関連性を報道しようとしてきた。

 1980年代から変わらない、アニメやマンガやゲームなど秋葉系文化を犯罪と結びつけようという報道が、今もなおつづいている。ちなみに若者文化を犯罪と結びつけようというマスコミの姿勢は、推理小説に対してもあった。今、誰が推理小説を犯罪と結びつけるだろうか? マスコミはその過去に知らんぷりをして、今度はアニメやマンガやゲームを叩きつづけている。

 そのマスコミの古臭い偏見に対して、アニメファンたちは「いい加減にしろ」と腹を立てている。そしてさらに、今の若い人たちは、上から目線に対する反発が強い。

 整理すると、「どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」というコピーに対して、

・アニメへの低視
・アニメに対する上から目線


 上記2つを今の人たちが感じ取って、抗議が起きたという次第だ。

 実は問題になったキャッチコピーが、もし次のようになっていたら、あからさまな挑発だった。

「文学を知らなければ
 どうやって人生を想像するのだ?(アニメか?)」

 違いは、「想像するのだ」の後に「?」がついているか、いないか。
「想像するのだ」と「想像するのだ?」の違い。
 断定と修辞疑問文との違い。

「どうやって人生を想像するのだ?」ならば、アニメに対する挑発は、もっと激しくなっていただろう。「?」が入っていれば、「アニメにできるのか? できないだろ?」という意味になり、明らかにアニメに対する批判になっていたはずである。

 だが、「どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」。
 修辞疑問文ではなく、断定。

「想像するのだ」の後に、「?」は入っていない。つまり、アニメに対する批判が、決して強いわけではない。でも、世間のアニメバッシングがあまりに激しくあまりに長かったため、「?」を補って解釈してしまった……と言えるかもしれない。

 このコピーをOKした人やこのコピーをつくった人の頭の中では、林修先生の声でこう聞こえていたのかもしれない。

「文学を知らなければ
 どうやって人生を想像するのだ。アニメか? 文学でしょう」


 さらに意味を補うと、こうなっていたのかもしれない。

「文学を知らなければ
 どうやって人生を想像するのだ。今勢いのあるアニメか? 死にかけていると言われている文学でしょう。まだまだ文学は死にませんよ」 

 もし、

「文学を知らなければ
 どうやって人生を想像するのだ(勢いのあるアニメか?)

 文学はまだ死んでいない。」


 というフレーズだったら、アニメへのレスペクトが感じられて炎上には至らなかっただろう。

 以上は好意的な解釈である。

 真面目な話をすれば、文学を知らなくても人生は想像できる(笑)。アニメでも人生は想像できる。マンガでも人生は想像できる。エロゲーでも人生は想像できる(笑)。

 ただ、人生の苦みや後味の悪さを味わうという点では、文学に軍配が上がるだろう。もちろん、アニメだって人生の苦みを知ることができるが、人生の苦みや後味の悪さは、文学の得意技である。なかなかカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』やミラン・クンデラの『冗談』のような苦みをアニメで味わうのは、かなり少ないかも。

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