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欧米のポルノで、唾液などの液体でぐちょぐちょにするプレイが少ないのはなぜ?

質問箱での質問です。

ぼく自身は、海外(欧米)のAV動画はそれほどたくさん見るわけではありません。日本のAVほど視聴しているわけではありません。乳揉みや乳吸いが、日本のAVに比べて非常に少なく、個人的に満足できるものがほとんどないからです。巨乳に吸いついていたとしても、ものの10秒程度で次のプレイに移ってしまうということが、欧米AV動画では本当に多いのです。

欧米では、ポルノの中心には挿入=ピストン運動が横たわっているように思います――まるで唯一神のように。ピストン運動こそ、男性が男らしさを発揮する唯一の見せ場である、という了解が欧米にはあるように感じます。そしてその了解の背後に、欧米に広がる英雄神話――男は化け物を倒して男らしさを発揮し、英雄(男らしい大人)となるという神話が確固として存在するように思います。

「じらしてください。いきなり入れないでください」「素人(のポルノ小説)はピストンばっかり書いてますね」という、日本のプロのポルノ小説編集者の言葉とは対照的ですね。ちなみに日本は、英雄神話の国ではありません。むしろ、英雄神話の少ない国です(桃太郎の鬼ケ島退治は例外的です)。

ヨーロッパの童話は英雄神話という特徴を持っていますが、日本の童話は英雄神話という特徴を持っていません。ロシアの子供が日本の童話を聞いていて、「それでいつ敵をぶっ倒すの?」と聞いて唖然とさせたという逸話があります。それだけ「敵を倒して英雄になる」=「英雄神話」は欧米では標準であり、日本では標準ではないということなのです。

さて。

今日、手許にある欧米のポルノ小説も何冊かエッチシーンを読んでみたのですが、カメラの使い方が違いますね。

日本のポルノ小説ではクローズショットは当たり前。超クローズショットも使います。巨乳アイドルのイメージ動画では、画面にバストだけが捉えられてスローで映されるということがありますが、あれが日本のポルノ小説特有の「超クローズショット&超スロー」です。

けれども、欧米のポルノ小説では、前戯もピストン運動も、クローズショットでは捉えられていません。カメラを引いて、常に全体図を捉えながらエッチシーンの進行を写している――つまり、ニーショットとかフルショットで捉えているように感じます。性感帯に超クローズショットでカメラを寄せて、スローで描写するということはしていないようです。

ある意味、常に客観的な視点で語られている、神様の視点に近い視点で語られているということです。この背後には、きっとキリスト教的な一神教があるのでしょう。

セックスをフルショット(引いたカメラ)で捉えようとする欧米。

セックスを超クローズショット(超接近したカメラ)で捉えようとする日本。

欧米の背後には、英雄神話があります。そして恐らく英雄神話は、ピストン運動を英雄的行為(男らしい行為)として考える土壌を生み出しています。さらに、欧米にはキリスト教的な一神教があります。それらが、セックスを引いたカメラで捉えさせ、さらにピストン一点張りのポルノ(一神教ではなく、ピストン教、唯ピストン的価値観)を量産させているのでしょう。

日本の背後には、英雄神話はありません。むしろ、「英雄神話でないこと」「欧米ほど高い男性性(男らしさ)が求められているわけではないこと」が日本の特徴です。また、キリスト教的な一神教は、日本にはありません。それらが日本のポルノをピストン一点張りの考え(唯ピストン的な価値観)から解放させ、豊かな前戯や豊かな性的プレイを実現させている側面があるのだろうと思います。

ピストン運動こそ男らしさを発揮する英雄的行為であるとする欧米の考え方からすると、唾液や愛液などの液体でぐちょぐちょにするプレイは、とても英雄神話につながらないプレイ、男性の男らしさを発揮しないプレイに見えることでしょう。

英雄神話に囚われていない日本では、唾液や愛液などの液体でぐちょぐちょにするプレイも、1つのプレイとして受け止められる可能性が高くなります。

性的な豊かさを誇ったローマを「堕落」と考える欧米には――そしてピストン運動こそ英雄神話につながる行為、英雄的プレイと考える欧米には――ぐちょぐちょプレイを受け入れるような土壌は、あまりないのでしょう。

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