コンテンツ文化史学会のポスターにもの申す人たちに反論する

 2014年のコンテンツ文化史学会の「ミニスカ女子高生2人を描いた萌え絵のポスター」に対して、批判が行われている。5つほどに批判をまとめて、それぞれに反論したい。

 1つ1つ、批判の内容を箇条書きに書いて、その後に、それに対する反論を述べていくことにする。

批判1.萌え絵がどれだけオタク以外の人や外国の人から見て、過剰にセクシュアルで物議を醸すものなのか、認識が足りない

「外国から見て恥ずかしい。だから、やめちまおうぜ」。
 そういう理屈で日本は混浴を廃止、100年前に次々と表現規制を推進。かの福沢諭吉に至っては、「日本は風俗嬢に対しての視線が優しすぎる。もっと厳しくすべき(つまり、差別せよ)」なんてことをのたまっていた。詳しくは澁谷知美『立身出世と下半身―男子学生の性的身体の管理の歴史』をお読みいただきたい。

 表現規制は学生のたばこや飲酒の禁止につながり、さらに大学受験生の風俗体験の規制へと発展。受験生は全裸で検査を受けるという事態にまで発展した。その悪しき検査は、1940年代まで日本に残っていたのである。

「過剰にセクシュアルで物議を醸すものだ」という批判が、どのような萎縮効果を放つことになるのか。表現規制をどのように押し進めて、日本の豊かなコンテンツ文化を潰すことになるのか。批判者は考えたことがあるのか?

 正直、表現規制に対する批判者の意識は、貧弱すぎると言わざるを得ない。「外国から見て……」なんてものを振りかざして批判するのは、表現規制への意識が甘すぎる。中途半端に外国にかぶれているだけである。

 さらに言うなら、コンテンツ文化史学会は、国際学会ではない。つまり、世界で開催するものではない。にもかかわらず、海外のキリスト教的倫理観の人たちにも配慮せよと? 仮にキリスト教的倫理観の人に配慮すべきだとした場合、では、イスラム教的倫理観の人に配慮しなくてよい理由は? イスラム教的倫理意識の人にも配慮するとなると、髪は露出させずにブルカ着用という形になるが、そこまでくると、「いやいや、そこまでは」と言い出す者が増えるだろう。では、問おう。キリスト教的倫理観の人には配慮すべきだがイスラム教的倫理観の人には配慮しなくてよいとする理由は?

 おかしなことになるのは、そもそも「日本のコンテンツ」ということで国内で行われているものなのに、外国の人(キリスト教的倫理観の人)に配慮するということ自体がおかしいからである。つまり、過剰な配慮ということだ。海外に対しての配慮から萌え絵を批判するのは、本人自身がキリスト教的倫理観に上書きされて、日本の文化を日本の倫理観ではなくキリスト教的倫理観で見るようになっているからである――まるで南太平洋の文化を西欧人がキリスト教的倫理観で見て、「野蛮だ」と野蛮的な断罪行為を行ったように。批判者たちは、キリスト教的倫理観に上書きされて、性的なものに対して過剰、過敏になっているのだ。絵が過剰にセクシュアルなのではなく、批判者たちの倫理意識がただ過剰なのだ。そして、それは余計な過剰である。文化を潰す過剰である。

 かつて「食べ物の画像をアップロードするのはよくない。世の中には飢えている人たちもいるのだから」と記事を上げて大炎上した者がいたが、批判者は炎上者と同じようなことをやっているように思える。
 
 少し脱線するが、ぼくはグローバリズムというのは経済レベルだけではなく、倫理道徳レベルでも起きているものだと捉えている。欧米のキリスト教的倫理観が世界の標準として、世界の隅々まで張りめぐらされようとしている。「外国から見て……」という批判は、その一例である。道徳的グローバリズムに安易に乗っ取られた発言は、とうてい容認できるものではない。

 それにしても。

 学会という非常に閉じられた場所で行われるもののポスターについて、なぜ学者や研究者の側から表現規制的なことを言い出すのか、個人的には納得がいかない。電車という公共空間で見られるエッチなキャラクター絵をプリントした手提げ袋と同じだと言い張るつもりだろうか? かたや閉鎖的な空間、かたや公共空間という違いがあるにもかかわらず?

 学者や研究者たちが表現狩りをしてどうするのだ?

批判2.萌え絵というのは欲望を喚起する装置を埋め込んだものであり、そのようなものをポスターに使うというのはどうかと思う

 では、あなたは女性のキャミソールについてはどう思うのか? 欲望を喚起する装置だから、キャミソールを着けている女性の姿は、たとえば日本限定で開かれる服飾関係の学会で「今の女の子のファッション」がテーマになっていた時、「欲望を喚起する装置だからふさわしくない」とあなたは批判するのか?

 批判する時、あなた個人の「何がエロくて何が煽情的で、何はそうではないか」という非常に狭小な倫理観で自動的に反応しているだけではないのか? それを「欲望を喚起する装置」だの「性的コード」だのといった真面目な言葉で誤魔化しているだけではないのか? そして、それは自分の中の倫理警察を隠蔽しているだけではないのか?

 行政側による監視は、かつてのようなパノプティコンみたいな外在的な監視の形から、一個人の内部にミクロレベルで機能するようになっているが、今回の事件はそれが現代日本でも蔓延していることを示している。学者や研究者ですら、自分の内部に(政府にとって都合のいい)倫理警察を飼ってしまっているのである。学者や研究者がミクロレベルで内在的に機能する監視=権力に対して自覚がないとは、なんとぶざまではないか。

批判3.学会で使うものではない

 コンテンツ文化史学会の「コンテンツ」とは、アニメ・ゲーム・漫画やそれ以外の映画・テレビ・音楽・ネットといった「日本」のコンテンツのことである。

 そのコンテンツ文化史学会の表紙に、アニメ・ゲーム・漫画というコンテンツのひとつの象徴である萌え絵が使われるのは、不適切ではない。「日本のコンテンツ」と言っているのに、ドラクロワを使う方が学会と無関係ゆえよっぽど不適切と言われるべきものである。

 ところで、政府はクールジャパンとして日本のアニメや漫画を、つまり萌え絵も含めて売り出そうとしているが、それに対して「学会での使用はふさわしくない」とは、これはいかに? 政府が推進するのは不適切ではないが、学会で使用するのは不適切だと?

 ちなみにポスターのイラストを描いた中川譲氏(ペンネームは未識魚)は、東京大学大学院学際情報学府博士単位を取得、満期退学した後、現在は日本映画大学映画学部で准教授を務めている。やはり不適切だと?

 学会から萌え絵を排除して、あなたたちは象牙の塔の「何」を守りたいのか? テリー・イーグルトン『文学とは何か?』を改めて読まれるといい。文学という制度、文学という象牙の塔を守るために頑なな態度を見せる英国の英文学者たちが批判的に描かれている。その姿に自分たちを重ねるといい。

批判4.性的搾取を匂わせるものやセクシズムを助長するようなものは学会のポスターとしてよくない

 なぜ、萌え絵を使えば性的搾取になるのか? 女性を描けばセクシズムを助長するのか? ヒロインは、ミニスカート以外は身体の凹凸が少なくボディラインが平板であり、むしろ中性的に描かれている。あなたは19世紀の住人か? あのポスターに対して性的搾取やセクシズムを読み取るのは、テーブルの脚に女性の脚を見てとるヴィクトリアンと変わらない。過剰な倫理意識、すなわち過剰に倫理や道徳の観点から告発しようという倫理警察の姿が見て取れる。性的搾取やセクシズムという言葉を使って、ただ自分の個人的な倫理観による感想を誤魔化し、己の倫理警察から顔を背けようとする姿が見える。

 学者および研究者がセクシュアルという理由で批判する時、かなりの確率で己の倫理警察を発動させる。性的搾取やセクシズムを掲げた批判は、ミクロ内在型の監視=権力に対して無自覚な発言であり、批判されるべき批判である。

批判5.「コンテンツと歴史認識」というテーマと萌え絵に関係があるように思えない

 「コンテンツと歴史認識」というテーマの下、今回の大会で行われるのは、以下のものである。

「コンテンツとホスピタリティ—共存・共栄のコンテンツ文化を目指して—」
「シンガポールの私企業系大学におけるコンテンツ教育」
「地方同人誌印刷所の競争力」
「「関係的な生きづらさ」をオタクの人間関係から捉える試み—「コミュニケーション不全症候群」の視点から—」
「ポピュラーカルチャーと二次創作—二次創作生成の過程とその特徴についての考察—」
「東アジア各国における歴史認識とコンテンツ」
「中国のメディアコンテンツ政策と日本コンテンツ」
「ドラマが伝える朝鮮の歴史」
「中国人の歴史認識とテレビ歴史劇及びその周辺」(仮)
「韓国の歴史認識における「中華」の位置ー「九義士」を事例にして」
「時代小説とファンタジー-剣豪イメージの変容と受容-」(仮)
「ぷよぷよ通一九九四〜二〇一四—AC通の栄光と孤闘—」
「アニメレイアウトの史的変遷」
「東京ディズニーランドにおけるチケットの変遷について—チケットのペーパーレス化が日本にもたらすこと—」
「蒼井そらの中国での受容と中国の若い人たちのアイデンティティ」
「地獄草紙のカリカチュアとしての勝絵—勝絵に見る日本型コンテンツの文化史—」
<シンポジウム>「コンテンツ文化史研究を世界に拓く —ヨーロッパ・アメリカ編」

 かなりばらばらではあるが、東アジアに焦点が当たっているように思われる。絵柄は東アジアと関係があるものが適当のように思われる。

 その場合、「萌え絵は不適当」ということにはならない。萌え絵であることに問題はない。日本のコンテンツを扱っている以上、萌え絵は妥当である。

 では、問題は服装か? チャイナドレスの方が適切なのか? セーラー服は日本だから不適切?

 批判者たちよ。あなた方は忘れているのではないか。日本も東アジアだということを。セーラー服の女子高生が描かれているからといって、テーマと関係がないとは言えない。セーラー服の女子高生が日本のイコンならば、セーラー服は決して不適切ではない。

 ところで、歴史認識の問題とは、歴史をめぐる相対性のことである。ちなみにミニスカートとハイソックスの間の露出した太腿の部分を、秋葉系の用語で「絶対領域」と言う。
 歴史をめぐる相対性。
 絶対領域。

 「相対」と「絶対」というこの対比は、果たして不適切なのか。
 ヒロインが2人というのも、1つの相対性の表現であるように思われる。これは不適切なのだろうか?

  批判する者たちは、絵が内包するもの、絵が表現しようとするものにはまったく頭を使わず解釈しようともせず、ただ粗探しをする人のようにセクシズムだの性的シグナルだのといったものに対して過敏に、過剰に反応しているように、自分には思える。セクシズムだの性的搾取だのといった言葉を通して自分の倫理観や好みがただ反応しているのを意識せず、ただ唾棄しているように思える。己に対する現象学的還元が足りない。

 蛇足であるが、ポルノ作家としての視点から――すなわち、人の欲望と欲望と性意識(倫理観)の専門家としての立場から、言わせていただく。

 差別に敏感なのは、自らが差別している者だという。この絵に猥褻さや不適切さを感じるとすれば、それは感情的な根源をたどれば、本人が過剰にエロいか、ただこの絵が気に入らないか、どちらかである。

 批判する者たちよ。学術的なタームで偽装せず、はっきり言ってはどうか。ボクチン、エロいから、エロを自分から追い出そうとしているから、ついつい過敏に反応しちゃいました、てへ、と。

 蛇足終了。
 最後に、主張をまとめておく。

1.外国から見て過剰にセクシュアルで不適切という批判は、たぶんにキリスト教的倫理観から断罪的に見た見方であり、なおかつ表現規制に与するものである。100年前に欧米の倫理観で断罪するという方法によって日本が青少年に対する規制を強め、さらに表現規制を強化していったことを忘れてはならない。批判は表現規制に対して与するものであり、自分たちの批判が日本のコンテンツを潰す可能性が高いものであることを意識していない、見識の低いものである。その点において批判されるべき批判である。

2.かつての監視=権力は外部から一望監視する形、すなわちパノプティコンの形であったが、今は人々の内部にミクロ的に内在して人々を倫理警察にする形になっている。「萌え絵は欲望を喚起する装置を埋め込んだものである」という批判は、倫理警察によるものである。学者および研究者が、自分の中の倫理警察に気づかすに批判するというのは、いかがなものか。

3.コンテンツ文化史学会の「コンテンツ」とは、アニメ・ゲーム・漫画やそれ以外の映画・テレビ・音楽・ネットといった「日本」のコンテンツのことである。そのコンテンツ文化史学会の表紙に、アニメ・ゲーム・漫画というコンテンツのひとつの象徴である萌え絵が使われるのは、不適切ではない。不適切という批判は妥当ではない。

4.問題になっているポスターは非常に中性的なイメージで描かれている。中性的に描かれたものに対して、性的搾取だのセクシズムだのと批判するのはいかがなものか。性的搾取やセクシズムという言葉を使った批判もまた、やはり内在型のミクロの監視装置、すなわち倫理警察によるものである。その点についての無自覚さは批判されるべきである。

5.今大会のテーマは「コンテンツと歴史認識」であり、東アジアが主になっている。日本も東アジアの一員である。セーラー服という日本のイコンを使用するのは、不適切ではない。そもそも、歴史認識の問題とは、歴史をめぐる相対性の問題である。それに対して、ポスターでは「ミニスカートとハイソックスの間」という「絶対領域」が描かれている。その対比は、決して歴史認識の問題と無関係ではない。したがって、ポスターとテーマが無関係であるという批判も妥当ではない。批判されるべきは、ポスターに対して自動的に倫理的に反応するだけで絵の意味を読み取ろうとしない批判者たちの姿勢である。

 まとめは以上。
 なお、表現規制のことや秋葉系文化については、ぼくは真面目な本を書いている。『非実在青少年論~オタクと資本主義~』。ご興味があれば、是非……って、最後は宣伝かよ!(笑)

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