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高島明石と「おとな」の選択~映画『蜜蜂と遠雷』レビュー

 何年か前、とあるアイドルのドキュメンタリーを見た。随所にインタビューが挟まれていて、アイドルたちがさまざまな悩みや苦労を語る。そのなかで、主要メンバーのひとりがこう言った。「おとなのひとたちは……」

「おとなのひと」が運営スタッフを指していることは、話の流れですぐわかった。違和感をおぼえたのは、彼女がすでに成人した、年齢としてはじゅうぶんに「おとな」のメンバーだったからだ。しかし、口にするのは彼女ばかりではない。よく聞いていると、ほかのメンバーもみな当たり前のようにその言葉を使う。様子をみているうちに、だんだんとのみこめてきた。これは、彼女たちの世界の慣習的な表現なのだ。

 舞台に立つ側が必ずしも「こども」なわけではない。だが、興行を取りしきり、アイドルたちを管理しサポートする側のひとは「おとな」。両者のあいだには明確な境界があり、立場と使命のちがいがある。

※以下、映画『蜜蜂と遠雷』のネタバレを含みます。

●例外的な「おとな」としての高島明石
 

 高島明石は「おとな」だ。
『蜜蜂と遠雷』に登場する主なコンテスタント(コンクール出場者)のなかで、唯一の、そして例外的な「おとな」である。

映画では松坂桃李が高島明石を演じている

 それは彼が単に「コンクール出場制限ぎりぎり」の年齢だからでも、勤め人だからでも、家庭があるからでもない。彼は音楽業界という世界における「おとな」だ。彼の勤め先は楽器店であり、営業部の一員として、音楽を社会に送り出す立場と使命を負っている。
 高島明石にとってほかのコンテスタントたちは、年下のライバルであり、戦友であるとともに、境界の向こう側の存在だ。海辺で遊ぶ3人の若いピアニストたちをまぶしそうに眺めながら、明石は「あっちの世界」と言う。あっちの世界。彼のまなざしは、才能を持つ若者たちに対する羨望と「おとな」の慈愛を同時にたたえている。

「生活者の音楽」──高島明石はそんな言葉を掲げて舞台に立つ。それは彼がこれまでの人生を元手に積み上げてきたポリシーだ。「社会人ピアニスト」の方便と思われてしまう危険を恐れつつも、彼はその言葉を自分のキャッチコピーのように積極的に口にし、その言葉を裏切らない演奏をする。

 高島明石は、すべてを捨ててこの舞台に挑むわけではない。彼は現実と夢との折り合いを探り、共生するあり方を選んでいる。職場には彼のコンクール出場を称えるポスターが飾られ、妻と子は父の挑戦を応援して会場に駆けつける。仕事を背負い、家庭を背負ったおとなが、周囲から祝福を受けて夢を追うには、さまざまな交渉と調整が不可欠だ。きっと多くの苦労があったであろうことは容易に想像できる(原作では、定期(預金)を解約して練習費に充てたというエピソードが出てくる)。彼はそうした面倒ごとのすべてをクリアして、舞台に立つ権利を得た。人生を捨てたわけではない。だが、総動員はしている。だからこそ彼の舞台には、演奏には、緊張には、ほかのどのコンテスタントにもない奇跡的な価値がある。

背負うものがあり、守るべきものがあり、社会を知ったからこそ、かつては知らなかった新たな恐れや緊張が湧いてきたのだ。───小説『蜜蜂と遠雷』(恩田陸/幻冬舎)


●越境という特権が観客を舞台に導く


 高島明石はなぜコンクールに出ようと思ったのか。なぜ「おとな」でありながら舞台の側への越境を試みたのか。原作では、その動機は「怒り」であると説明されている。標準的なサラリーマン家庭に生まれ育ち、自らサラリーマン家庭を築き、日々、天才ならざる人たちに向けて音楽を売る彼は、天才的な少年少女が占有するコンクールの世界に、ひいてはクラシック音楽の世界そのものに大きな違和感とジレンマを抱いている。だからこそ、彼は営業マンの顔をした破壊者としてコンクールに乗り込んでいく。彼は舞台に立ち、元同級生のTV記者と気さくにしゃべり、スタッフの一員のような顔をしてモニタールームにしれっと座る。彼のささやかな特権によって、映画の観客もまた「舞台」と「おとな」の境界を越えられる。

 一方、高島明石は「もし勝てなかったら」の未来は語るが、「もし勝てたら」の未来は語らない。もし勝てたら。もし優勝したら。彼はそれでもなお愚直に「生活者の音楽」を続けただろうか。それともサラリーマンをやめ、生活者をやめ、「遅れてきた天才」として舞台の上に転身を遂げただろうか。そのifに対する答えは映画のなかにはない。はっきりしているのは、彼がコンクールを終えたあと、自分でも想定していなかった道を歩み始めたことだけだ。何も捨てることなく、ぜんぶを背負って生きる。彼はこれまでの努力をこれまで通りに続ける未来を選んだ。いったいなぜか。おとなの彼が闘いの末に出した答えは、こどものようにシンプルだった。ファイナルの演奏をモニターで眺めながら、彼は言う。「ピアノが好きなんだ」


●「“明石的な”優しさ」──福間洸太朗の想像力

 高島明石のピアノ演奏を担当するのは、ピアニストの福間洸太朗である。

「彼と私は境遇がかなり違います」と福間は言う。たしかにそうだろう。福間はベルリンを拠点に世界の舞台で活躍する傑出した実力と才能をもつピアニストであって、サラリーマンではないし、国際コンクールの優勝歴もあり、サントリーホールを満員にする人気アーティストだ。
 だが彼も、10代、20代という若手の年齢を過ぎ、「あっちの世界」を客観的にみるまなざしを持ち始めている。多忙な演奏活動の合間を縫って、マスタークラスを開催して後進の指導にもあたっているし、最近のインタビューでは、若いからこそ映える体力型のレパートリーは少しずつ「弾き納め」しているとも語っている。傍から見ている限りは、まだ納めるにはもったいない見事な演奏ぶりなのだが、それでも福間のピアノには、絢爛たる技巧をアピールするマサル・カルロス・レヴィ・アナトールの「春と修羅」は似合わない。過去の傷と戦いながら自分の音楽をつかみとる栄伝亜夜でもない、飄々とした神童タイプの風間塵でもない。人生の紆余曲折のなかで着実にピアニズムを築いてきた明石こそが、やはり最高のハマり役だ。

 石井慶監督は福間の演奏を「“明石的な”優しさ」と表現している。福間自身はこう言う。「人を圧倒する凄みはなくとも、「癒し」が演奏から感じ取れるのが明石の個性だと思います」(月刊ショパン 2019年10月号 P.25)──映画「蜜蜂と遠雷」の魅力のひとつは、演奏ピアニストのキャスティングである。河村尚子(亜夜)にせよ金子三勇士(マサル)にせよ藤田真央(塵)にせよ、よくぞ抜擢したとうなるピアニストばかりで、むしろ彼らをモデルにキャラクターが造形されたのではと思うほどだ。

 映画に登場する曲はごくわずかである。だが彼らのコンクール演奏曲は原作ではすべて明示されており、そのいくつかは演奏ピアニスト自身の録音を聞くことができる。他の3人と比べてやや出番が少ない明石の場合は、映画に登場しない曲にこそ解釈と想像の楽しみがあるともいえる。営業マンの顔をした破壊者が、いったいどんな曲をどんな風に弾いたのか。なぜシューマンの「クライスレリアーナ」を? なぜラヴェルの「水の戯れ」を? ……そこにもまた、「おとな」ならではの選択がある。


小説『蜜蜂と遠雷』

映画『蜜蜂と遠雷』

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 福間洸太朗 plays 高島明石


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