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補助輪としての「しゃべる」こと、あるいは悪名高いシンドラーのベートーヴェン伝が意外と実践型だという話

しゃべることに自信と肯定感があったら、書くことを積極的に選んではいなかっただろう。わたしはそもそも無口だ。10人いたら9番目くらいの無口だと思う。典型的な「サシの対話ならまだなんとかなるけど、話の輪が3人以上になると地蔵みたいに黙ってしまう」系のコミュ障だ。オタクは自分の好きなことならペラペラしゃべるというけど、わたしは日常的にはそれすらしない。それなのに、数年前からぽつぽつとしゃべる機会をいただいて、下手くそなりに、いちおう時間を埋めている。

2019年6月13日 新潮講座「ベートーヴェンは捏造された?」
お越しいただきありがとうございました。

そういうわけでわたしにとって、しゃべるというのは非日常的で特異な体験(?)だ。だから、しゃべるたびにいちいち新しい感慨と発見がある。しゃべることと書くこと。両輪とはいわないでも、しゃべることを何がしかの補助輪にしていきたい。今回はあらためてそう思った。しゃべるための情報収集と書くための情報収集は、同じ資料を見ていても、得られる発見が微妙にちがうのだ。

たとえば今回の講座では、前日にひとりでぼそぼそリハーサルをやっている最中に(コミュ障なのでちゃんとリハーサルをやる)、講座のテーマであるところのアントン・フェリックス・シンドラーの『ベートーヴェン伝』における音楽解釈が、実はかなり教育に適したスタイルで書かれていると気がついてビックリした。

シンドラーがあれやこれやの手で(ときに改竄を駆使しながら)繰り出してくる音楽解釈は、もっとロマン派文芸的な……というか、浮世離れした……というか、夢みがちなものだと思っていた。でも、違った。該当のピアノ・ソナタを流しながら、「このようにこのフレーズは願いと拒否をあらわしているとシンドラーは言っていて……」と、身ぶり手ぶりを使って自分の口でしゃべりだしたときに、驚愕した。ヤバい。これ、使える。めちゃくちゃ実践的じゃんか。ただ読んで、頭の中で考えてるだけじゃ絶対に気づかなかった。シンドラー教授よ、あんたはこうやってピアノを教えてたんだな。ヴュルナー君とかに。

そういえば。わたしは大人向けのバレエのレッスンにたまに通っているのだけど、そこの先生は、ことばによる誘導がめちゃくちゃにうまい。プロではない、つまり身体の使い方はわかっていないけど考える頭はある大人をすばやく理解に導く比喩をとてもよくわかっている。こういうのは得がたい才能だと思う。

さらに思い返せば、子どもの頃のバレエの先生は、ロマンティックなことばで女児の感覚に訴えかけるのがすごくうまかった。「頭の上にティアラが輝いていると思って!」とか、「ここで降り注ぐ朝陽を抱きかかえながら」とか。こういう雰囲気ワードって、文字にしてしまうと技術の習得とはかけはなれた、ハップンの声かけにしか見えなかったりするけど、全然そんなことない。ちゃんと刺さるし響くのだ。実践的な意味で。

そういう意味では、こういう「教えのスキルとしての語彙」って、いわゆる美学的なものとは別のカテゴリとして考えたほうがいいんじゃないか。なんてちょっと思ったりもする。そして、シンドラーが『ベートーヴェン伝』のなかでそこらへんを混同してわやくちゃに書いちゃってたとしても、それはまあ、しゃーないのではないか。とにかく、いかにも文学青年じみた彼の文章のなかに、教える=しゃべる という実際の経験が息づいていた、というのはおもしろい発見だ。ああそうか、だから彼はミュンスターの楽団でうまいこと団員の心をつかんだんだな。でもって、詩的言語で伝えることの重要性を主張するわけだ、むにゃむにゃ…………

…………とかなんとか、いろいろ気づかせてくれるので、しゃべる行為はやっぱり大事だし、そういう機会をいただけるのは、本当にありがたい。わたしの場合これが毎週だったりしたらたぶん死んじゃうけど、1年で何回か、くらいなら全然アリだと思う。大学の先生も、こうやって教壇と机上をうまく相乗効果で回しながら研究しているのかもしれない。ピアニストも。作曲家も。

一方で、「しゃべる機会の大事さ」という発見は、こうやって文字で書かなければうまく整理できないので、それはそれでふしぎだ。なにがどう補助輪になりうるかは、本当にわからない。経験に学ぶのは愚者という言葉があるけれど、いやいや、経験が足場になることもやっぱりあるよ。ことにわたしのように、自分の頭のなかで済ませがちな人にとっては。

(というわけで、noteをいくつかの補助輪のひとつとしてひっそりと運用中。140字以上2000字未満の雑感放り込みの場として活用していければ何より。)

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