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能力と生産性と労働観~映画「天気の子」感想メモ ※ネタバレあり

※この記事は、映画「天気の子」に関するネタバレを含みます。

「アナと雪の女王」のヒロイン・エルサは、能力を社会に還元して生産性を得ることでハッピーエンドを迎える。
「天気の子」のヒロイン・陽菜は、能力を社会に還元して生産性を得ることで死んでいく。

エルサは特殊能力を持つことの苦しみを克服し、最後には、女王の職務として誇らしげにその能力を使うようになる。彼女の国の繁栄のためだ。

陽菜は、母を亡くし、小さな弟を抱えて、毎日を生きるのに必死だ。
マックをクビになったあと、身体を売ろうとした矢先、主人公の少年・帆高によって阻止される。
そして彼らは、彼女の特殊能力を使って商売をしようと計画する。 

しかし彼女は、主人公が提案した5000円という価格設定すら「高くない?」と言って難色を示す。
自分の能力にふさわしい対価をうまく提示できない。
子どもだから。都会の貧困のなかに生きているから。
何万円もくれる人もいる。けれど、それはただのチップでしかない。チップをはずんでくれる余裕があるのは大概おじさんで、その理由は「お嬢さんがカワイイから」だったりする。

結局、彼女は、不当に安い対価と「やりがい」と「みんなの笑顔」で承認欲求を満たし、過労で生きる力を奪われ、それが自分の天命だと信じ込んで、死んでいく。

だから「能力じゃなくて、君がいいんだ」と主人公が訴えるのには必然性がある。
ただの恋の告白ではない。
彼女を不幸な労働観から救い出すために、彼は東京の街をひた走る。 

若者が安い労働力になることを放棄して東京が沈むならそれでもいい。 

彼の決断と勇気と愛によって、彼女は九死に一生をとりとめた。
そして東京は沈んだ。文字通り。

数年後。
「昔住んでいた下町は水に沈んだ」
かつての客はそう言う。
主人公は思わず謝る。
「なぜあなたが謝るのか」
かつての客はそう言う。

なぜあなたが謝るのか。そのとおりだ。
謝るべきは、大人たちだ。東京を沈めたのは、大人たちだ。

水に沈んだあとの東京は、かつての世界の労働観の過ちに気づき、変わりつつあるのだろうか。
はっきりとした結論は示されない。
ただ、主人公は大学生らしいまともなバイトを見つけようとしているし、陽菜は労働のためではなく自分自身の幸福のために能力を使おうとしている(ように見える)。

マイノリティの存在価値と生産性を全面的に称揚する「アナ雪」のハッピーエンドは、きわめて先進国的だ。
(一方まちがえればネオリベ的でもある)
201X年の東京には、「天気の子」という物語のほうがよりしっくり来る。

どちらも、ヒロインが寒暖をコントロールする特殊能力をもつ物語である。
エルサは氷、陽菜は日照。

なぜ能力をもつことで代償を負わねばならないのか。命を差し出さなければならないのか。
観終わってしばらくは釈然としなかった。
エルサは能力を持つ自分に苦悩するが、能力と引き替えに命をとられることはない。
対して、陽菜は能力を使えば使うほど消耗し、死に近づいていく。

なぜなのかはわからない。
しかし、違和感はない。
これはどこかで見たことがある話だ。
わたしはこの悲劇を知っている。何年も見ている。
ニュースで、Twitterのタイムラインで、東京の雑踏に貼られたアルバイトの時給表で。
ハッと気づいたときに、作品のすべてが、東京の街の過剰にフェティッシュな描写が、すべて伏線になって豪雨のようにバサバサと目の前に落ちてきた。

観おわった15分後に私はこうツイートした。

5時間後のいま、この記事をメモ代わりに書き終えた。

書いたことはこの作品の一面でしかないと思う。それにしても、たった5時間でわたしの感想はかなり変質してしまった。

  
この作品は、数百年後に、どういう意味の史料価値を持つようになるのだろう。
このハッピーエンドは、現実の未来と照らし合わせてどのように受け止められるのだろう。 
いまはそのことをかすかな畏怖とともに考えている。

付記
余談だけど、わたしがこの映画で唯一うるっと来てしまったのは、刑事が主人公にピストルを向けながら「撃たせるなよ……」とつぶやいたあのシーンだった。
大人が大人の義務として子どもを守ろうとする。そういうシーンが随所に描かれていたのは、この作品の救いのひとつであり、水に沈んだ東京の再生への糸口である。