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時代が求めるもの 〜エクリヲvol.7 「僕たちのジャンプ ジャンプ・ディケイド」より

近頃、雑誌は売れないと聞く。それは漫画雑誌も同じらしい。漫画以外にもゲームなどの楽しみ方がたくさんあるからだろうが、ストーリーがあるもの、つまり物語性のあるものには、先の展開が気になるというある種の中毒性があるから、週刊漫画が生き残る可能性は、媒体の変化はあれ、まだまだ高いと考えている。

さて、今回は批評雑誌エクリヲvol.7より「僕たちのジャンプ ジャンプ・ディケイド」を取り上げたい。これは週刊ジャンプを例に挙げ、十年ごとにその特色をまとめ、考察したものとなっている。
批評に敷居の高さを感じている方にも親しみやすい内容となっていて、面白い。

(1)1970年代

 まずは1970年代の創刊期からの十年を黎明期と位置付けている。

 この時期の作品で、私がよく知っているのは「北斗の拳」や「シティーハンター」である。

 この時期の作品にあるのは、ワンマンヒーローによる熱血スポーツ漫画な必殺技文化であり、これはのちのジャンプにおける一人一人が固有の必殺技を持つ能力バトル漫画への系譜の始まりであるとする。

(2)1980年代

 
次の1980年代には、1970年代の①武闘会バトルものからスポーツバトルものへの移行および②個人戦から団体戦への移行の二つの移行により、ジャンプらしさを構成する二つの要素が開祖した。
一つ目は、集団でトータルの勝ち星を競う展開であり、もう一つは修行により克己を遂げる精神的側面であるという。

 
なるほど、この時期の代表作で私も知っている「キン肉マン」「ドラゴンボール」「キャプテン翼」「ジョジョの奇妙な冒険」を見ても、その通りである。
主人公はいるが、勝つためには主人公だけではなく、仲間全てが必要である。そして彼らが敵に勝つためには、数々の試練や必要なアイテムやらがあって、ストーリーも長くなっていく印象がある。

(3)1990年代前半

 
1990年代前半は、日本経済はバブルが崩壊し、時代にはバブル期とは正反対の閉塞感が漂っていた。既存のパラダイムが崩壊し、新しい時代を生き残るためのパラダイムシフトが求められていたのである。

 こうした時代を反映してか、1980年代に開祖したジャンプらしさも変容し始めたといえる。端的に言えば、今までの何かに抗うバトルものから、現実的、妥協的になり融和を模索するストーリーへの変化である。

ジャンプでは「幽☆遊☆白書」や「SLAM DUNK」「ドラゴンボール」などの大型連載が終了し、「寄生獣」がスタートした。「寄生獣」は確かに異生命体との融和を描いた作品といえるものだ。

(4)1990年代後半

 この年代に関する考察は、一番興味深かった。バブル崩壊後の新しいジャンプらしさを構成する要素について、端的に〈少年の〉〈少年による〉〈少年のための〉物語であるとした点には説得力を感じた。これまでのバトルものが少年が憧れるような男性像をプロトタイプのように示していたのとは対照的に、性差の要素が消えてなくなっている。

 例えば、90年代以降の新しいジャンプらしさについて、これまでのバトルものとの比較として例えば①友情、②努力、③勝利の3つの概念の捉え方は次のようになる。

〈友情〉

 これまで:間違っても筋を通す奴が尊敬される

 90年代後半:正しいと思った奴を大切にする

〈努力〉

 これまで:(好きな)女を守るため

 90年代後半:好奇心からするもの

〈勝利〉

 これまで:男のプライドのため

 90年代後半:勝つことで成長していく

 代表的な連載作品は、「ONE PIECE」「HUNTER × HUNTER」「ヒカルの碁」「テニスの王子様」「ナルト」などであるが、私の好きな「ヒカルの碁」でも、確かに最初に盤に宿っていた平安時代の棋士に請われていやいや碁を指していたヒカルが囲碁に真剣になるのは、純粋な好奇心であったし、真剣に努力を始めたヒカルが手にする勝利は、ヒカルの成長物語になっている。

 女性である私が共感できる男性漫画は、この年代以降の作品であることの理由が解き明かされたような気がした。

(5)2000年代

 90年代後半の新しいジャンプらしさは、それ以前のバトルものの性格と相まって、新しく「王道」を創り上げていく。それは主に00年代以降、異能バトルとして表れる。

 ただ一方で、バトルものの形からは一線を画す「邪道」が生まれ始める。それは、例えばサスペンスものの形をとったり、異能を自分の望みのために使う主人公だったりすると指摘する。一例として「DEATH NOTE」が挙げられる。

 こうした邪道が生まれた背景には、ジャンプ自身がジャンプらしさ=王道とは何か、という自意識が生まれたからではないかと考察していた点は、興味深かった。

 自意識は、迷いの延長上にあるものだ。王道と邪道。そのどちらにもなりきれないものが「打ち切り」となる。この時代のジャンプは「〈三本柱〉の時代」との表題の三本柱とは、「王道」「邪道」、そして「打ち切り」も含めた三本を指すという指摘には、「打ち切り」作品もこの時代のジャンプを支えた立派な作品であるという作り手へのリスペクトを感じた。

(6)2010年代

 さて、今に至るわけだが、10年代のジャンプの特徴は、①多層的な関係性と②90年代に見られたようなかつてのジャンプらしさを内破する非ジャンプ的なカラーであるとする。

 まず①多層的な関係性とは、具体的には主人公は一人ではなく、対照的な性格、資質の二人としてシンメトリーなキャラクターを配置し、互いに互いを嫉妬し、ライバル関係となりながらも共に仲間として成長していく物語とする進め方である。

 しかし、②非ジャンプ的なカラーとは今度は一体何なのか。そもそも00年代において、ジャンプらしさの定義が揺れていたわけだから、非ジャンプらしさを考えるのは難しいだろう。かつてのわかやすい80年代のジャンプらしさ=少年が憧れる男性プロトタイプの提示からの変容とはまた違った、繊細な変化が始まっているのかもしれない。その例が「約束のネバーランド」であるとしていたが、10年代におけるジャンプの変容を語るには、まだ今後の時代を反映した作品群の登場を待つ必要があるだろう。

 さて、このようにジャンプを主に十年スパンで区切ってその特徴を見てきたが、結局のところ、各時代に求められる面白さとは何か、それを考察している批評といえる。ジャンプの特徴の違いを見れば、その時代を生きていなかった人たちも、その時代を知る手がかりになるだろう。

 ジャンプの連載作品の中で、女性である私のあくまで主観的な好みを述べさせてもらえるのなら、やはり90年代後半以降の作品は、男性漫画であっても特に抵抗なく読んで面白いと感じる作品になっていると思う。また、00年代の批評においては「邪道」とされた「DEATH NOTE」は、バトルものの形式ではなくサスペンス形式をとったことも功を奏し、映像化が何度もされる作品になった点は見逃せない。物語の発端に、誰もが一度は感じたことのある法律の限界、法律の理不尽さを置いた点は、これまでの個人を主人公とした成長物語とは視点が格段に広く、実験的な試みであったが、「王道」モノよりも存在感を感じさせる作品になったという印象がある。

 最後に、少年漫画との比較で、少女漫画について考えてみたい。

 少女漫画も少年漫画と同様に、時代によって求められるものが違ってきたのか。その答えは、否だと私は考えている。少年漫画ほどの変化を、これまでの少女漫画には感じないというのが正直なところだ。

 フェミニズムという考え方があるが、最初から少女漫画においての主人公は、女性であっても、自分の生き方を模索し、貫くという強さを持っている。少女が青春を経て、一人の大人の女性に成長していく過程で、恋愛の要素は大きく取り上げられるのは少女漫画の王道なのだが、王子様的なキャラクターの男性に守られるというよりはむしろ、事情を抱える男性側を支えていくための強さを身につけていくストーリーが昔からあった。現代は、夢を持つ女性が夢を叶えるまでのサクセスストーリーなども前面に出てきたが、ある意味少女漫画は、時代が求める女性像よりも、女性自身がこうありたいという女性像に正直に、時代を先取りしたフェミニズムを展開してきたといえる。

 もう一点、少女漫画が少年漫画に比べて変容していないように見える理由は、そのストーリー構造にあると考えられる。

 少年漫画は、ストーリーにおいて展開を重視する。展開の特徴を一言で示すのに、静か動かと言われれば、動である。劇画タッチで、流れがある。速さがある。常に物語が前進していく。

 一方の少女漫画は、ストーリーにおいて、登場人物の心理の揺れを重視する。少女漫画はよく文学と近いと言われることがあるが、それは心理描写を細かく描くからである。人物がある決断をするに至るまでの心理経過をエピソードを積み上げて、ひたすら丁寧に描く。時間はそれほど速く展開しないし、少年漫画のような劇画タッチはほとんど表れない。少女漫画の世界観は一言でいえば、静の世界観である。

 このように見ていくと、少女漫画は10年代以降もあまり変化していかないようにも思えるが、こればかりは生きてみなければわからない。今後の漫画文化は日本だけにとどまらず、世界へ羽ばたいていくだろうし、その影響が日本の漫画にどのような影響を及ぼすのか、目が離せない。




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