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写真批評 〜サシイロ 9 ディストーションの世界

アンドレ・ケルテスは、スナップ写真の先駆者である。彼はいつでも持ち歩けるカメラの登場を活かし、偶然にも特別な一瞬に巡り会った時に、その一瞬を必ずカメラに収めた。冒頭の写真もその一つである。このような構図は、現代の写真家の作品の中にも見られるものだ。

スナップ写真もいいが、アンドレ・ケルテスの真骨頂は、やはりディストーションシリーズだと私は考える。
ディストーションとは、歪みやねじれのことを指す単語だが、アンドレ・ケルテスの場合、被写体のある部分を鏡などを使って歪めた写真を撮った。
例えば下の写真である。

通常私たちが見ている形状が極端に歪められたこのような写真は、一種の倒錯した世界を構成する、もはやアートである。写真に写るこの女性は、人間というカテゴリーを逸脱し、一つの静物、いや丸や四角、三角という直線や曲線で構成された抽象物と同格のモノとなっている。
現代であればCGなどの技術で簡単にこのような絵を描けるかもしれない。だが、アンドレ・ケルテスの時代にはそんな技術や装置はないわけで、このような構図を作るのもそう簡単なことではなかったはずだ。そこまでして、アンドレ・ケルテスが訴えたかったことは何か。

1つは、既存の概念を取り去り抽象化することで、私たちに既存の概念からの解放を促したのだろう。これは彼がスナップ写真で、通常目にはなかなかできない「特別な一瞬」を撮ってきたことと通じるものがある。私たちは普段よく見慣れていることや多くの人が採用する考え方などを優れているもののように錯覚し、自分自身をその価値観の中に閉じ込めてしまいがちだが、優劣は本当はないはずだ。ただ多様性を認める勇気がないだけであることに気付かされる。

もう1つは、あえて抽象化することで、逆に被写体のもつ本質をクローズアップさせる効果を期待したのではないだろうか。
例えば女性のヌードの場合。女性のヌードの曲線美をこの写真から嫌という程感じないだろうか。しかもその曲線をパターン化することの難しさは、ヌードが、いや人間というものの本質が、決してパターン化できない個性に満ちており、個別の人間の思考の不安定さ、多様性を訴えているといえる。

ディストーションという手法が見せてくれる世界は、歪められた世界なようで、私たちの考え方が狭くなってはいないかを問いかけてくれるのである。本当に歪んでいるのはディストーションの写真の世界の方なのか、もしくは私たちなのか?と。

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