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お茶室で、またやらかしてしまいました

 先日の茶道のお稽古のおり、唐津焼の有名な陶芸家がお客様として茶室にいらっした。おっしょさんに、
「こちらの方は、陶芸家の田中佐次郎先生です。先生、うちのお弟子さんの一人で作家の方です」
「初めまして。安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて書いております、カゲロウノヨル(※仮名)と申します」
「山上宗二は(手を首の前で横に動かして)、やっぱり殺されたんですか?」
 といきなり歴史の話を振られた。私は山上宗二を小説に登場させたことがないので、よく知らない。そのことを断って、
「先だっては、長谷川等伯と千利休、石田三成と狩野永徳、この二組の丁丁発止を書きました。信長が始めた茶の湯御政道が秀吉に受け継がれ、江戸時代に入って家康、秀忠、家光と受け継がれていく。時代の政の裏舞台で茶の湯が重要な役割を果たしていた。そのことを書いています」
 と田中先生に説明した。するとおっしょさんが、
「カゲロウさんは、等伯を書いたんです」
 と追加の説明をした。田中先生はピンと来なかった様だが、私は私で大きな勘違いをしていた。
 以前、教室の大きなお茶会で「井戸茶碗」を提供していただいたのが田中佐次郎先生だった。その井戸茶碗の箱書きをされたのが元東京国立博物館で陶芸の部署を統括してらした陶芸研究家の林屋晴三氏。林屋氏は五年前に他界なさっている。その方と勘違いしていた。
 田中先生が帰られた後、お茶室にいた姉弟子、兄弟子に田中先生について林屋晴三氏と勘違いして説明してしまった。不幸中の幸いだった。飛んだ赤っ恥だった。
 しかし、田中佐次郎先生は、その林屋晴三氏に、
「井戸茶碗や伊羅保茶碗を作ってもコピーにすぎない」
 と言われ、以後、田中氏は林屋氏のお茶会にあしげく通ったという。
 
 こんな経験をした私は田中佐次郎氏、故林屋晴三氏の両氏を二度と忘れることはないだろう。茶道の世界は周囲の温かい心に包まれて成り立っているのかもしれない。私にとって佐次郎先生との出会いは故林屋晴三氏へとつながり、私の茶の湯の世界をされらに大きく広げてくれそうに思え、思わず涙が滲んだ。
 一つの大きな計り知れない力によって私はどこかへ運ばれていくのだろう、とそんな気がした。

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