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江戸小紋と利休忌 着物の「格」に開眼!

 おっしょさんが先月、家元で行われた利休忌の集いに参加して来たことを話してくださった。その事もあってお茶室の床間には利休の姿絵の軸が掛けられていた。
 おっしょさんにお尋ねした。
「利休の本歌の絵は二点しか無いと聞いています」
「私も、その様に聞いております」
「一点は利休が血気盛んだった頃の絵。もう一点は長谷川等伯が、利休が亡くなられた五年後に描いた絵。床に掛けられているのは後者の長谷川等伯の写しだと思います」
「何回も描き写されてきた事でしょう」
 そこでおっしょさんは、かすかに微笑んだ。
「そう言えば裏千家の今日庵から通りをはさんだ斜め前のお寺で長谷川等伯展が開かれていました。それを見て、蜻蛉さんとの縁を感じました」
「等伯展で私のことを思い出していただいたとは、ありがとうございます」
 と、いつもの様に軽い気持ちで挨拶を交わし、その日は帰路に着いた。
 自宅に帰ってから、おつしょさんが話していた千家の前の通りを挟んだ斜め前のお寺という言葉が気になって、調べてみた。
 千家は二本の路地で挟まれている。そのどちらにも斜め前にはお寺がある。一つ目のお寺は日蓮宗大本山妙顕寺といい、後醍醐天皇とゆかりのあるお寺。一方、反対側の路地を挟んだ斜め前のお寺は如何に。そう思いながら地図を見て、我が目を疑った。 
 おっしょさんは利休については沢山のことを知っていても、長谷川等伯については一般的な知識しかないだろう。だから、その重要さに気付かず、「縁」の一言で終ったのだろう。
 しかし、私は、それよりも更に強く、歴史のいたずらに感動した。
 そこにあったのは「日蓮宗本山 本法寺」である。このお寺は等伯が能登の地を諦め、妻子を引き連れて再起を願ってたどり着いた京の都で、最初に暮らした場所だったからである。一家は境内の塔頭の一つに仮住まいさせてもらった。その後、当時の住職だった日通上人と親しくまじわり、後に日通上人の姪と等伯は再婚する。更に日通上人は、等伯の言葉を直に聞いてまとめた「等伯画説」を書き残している。
 こうして京の都での第一歩を踏み出した等伯の一家にとっては、まさに大切なお寺だった。
 さらにおっしょさんとの会話が進んで、彼女は珍しく私の着物に言及した。そう言う場合は大概、私の着ていた着物が極端に趣味が良いか悪いかのどちらかである。
「そのお着物は、どうなさったの?」
「いつもと違ったもので、気分転換をと思いまして。ヤフオクで落札しました。柄は間道(かんとう)と言うものらしいですが」
 着物は黒地に細くて白い線が、全体に染めてあるもの。それに、無地の黒い袴を付けていた。
「そのお着物の柄は、江戸小紋の万筋(まんすじ)といいます」
 おっしょさんは、笑顔で説明してくれた。
「万筋ですか。知りませんでした」
 おっしょさんは、それ以上の事については言及しなかった。
 しかし、私は帰宅してからも気になったので、早速「万筋」を調べて見た。すると「利休忌に着ていくお着物」の一つに「抑えめな江戸小紋」とあった。「万筋」はそう言う江戸小紋五役の内の一つであることを知った。
 おっしょさんが嬉しそうに「万筋」を説明していたのは、そのためだったのかと理解した。
 つまり私は、そのいわれも知らずに利休忌に適した着物を着て行ったと言うわけである。
 本当なら、おっしょさんに、
「そのお着物は?」
 と聞かれたときに、
「これは江戸小紋の五役の一つ、万筋です。本日は利休忌のあと、初めてのお稽古なので、それに合わせて着物を選んで来ました」
 と、お着物の「格」についてしっかりと答えていたら、おっしょさんから百点満点をもらえたろうに、とほぞを噛んだ次第である。
 物を知らないと言うことは、こう言うところで評価を下げてしまうのだな、と反省しました。
 次回は、江戸小紋の三役の一つ「通し」を着て行こうとヤフオクの画面にかじりついています。
 


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