朗読とは「アート」である

 昔の話で恐縮ですが、作家の浅田次郎さんが『鉄道員』の映画化についてコメントを求められた時、「小説と映画はまったく別の表現なので、映画に関して私がなにか言うことはまったくないです」といった旨の返答をしたのをテレビで観た記憶があります。

 当時私はそのコメントを聞き、そういうもんか、とさらっと聞き流したのですが、後々原作のある映画やドラマを観ていくうち少しずつ、確かにその通りだな、と思うようになってきました。

 『ミスト』という、フランク・ダラボン監督のホラー映画があります。これは巨匠スティーヴン・キング原作なのですが、結末が原作と異なっています。それがトラウマ級の衝撃的ラストで(当然賛否はありますが)、キングも「この結末は衝撃。恐ろしい」と述べたそうです。私も「うわー!」と叫びそうになりました。あとこれは知人から聞いた話なので不確か情報なのですが、キングは「おれもこの結末にしときゃよかったよ」とまで言ったとか言わないとか。

 日本の例だと漫画家こうの史代さんの『この世界の片隅に』でしょうか。これは戦争を知らない世代が描いた戦争漫画として語り継がれるべき傑作だと思います。私も原作を読んで胸つかれ、号泣しました。だから片渕須直監督でアニメーション映画化された時、「原作がよかったからなあ」とちょっと懐疑的な感覚で観に行きました。ですが実際観たら、原作に負けず劣らずの傑作だったんですね。個人的には空襲シーンがものすごく恐ろしかった。比喩でなく体が震えたんです。この点だけは原作では感じられなかった、映画だからこそ体感し得た感覚だったと思います。

 長々書いてなにが言いたかったというと浅田次郎さんの言葉通り、小説・漫画とそれを原作とした映画・ドラマ・アニメとは、まったく別の表現方法であるのだな、ということ。

 そして、それは朗読にもあてはまる、ということ。



 今回、おまゆさんが「読む聴く小説週間」で、私の作品『街をこぐ』を朗読してくださいました。



 朗読データをいただいて聴きはじめた瞬間、思わず、あ、と声が出ていました。

 普段noteで見せてくれる明るい表情のおまゆさん(もちろんそれだけではないですが)からはまったく想像できない「声による描写」がはじまったからです。私同様、聴いた方は驚くと思います。こういう風に読むんだ、と。

 それからも「声による描写」にこころ揺さぶられ続け、後半、ラストにはもう涙ぐんでいました。しかも15分です。15分間、ひとつの作品を声に出して読み続ける。お子さんに読み聞かせをする親御さんでもない限り、やったことがある方はそうそうおられないのではと思います。私もそうです。そのあたりの裏舞台はおまゆさんご自身が書かれているので、こちらもぜひお読みいただければ。


 聴き終えた瞬間、思いました。ここにひとつの「朗読」という「作品」が生まれたのだ、と。

 断言してしまいます。この作品に限ってですが(他の方の原作はぜひ読んでくださいね!)、原作を読む必要はありません。おまゆさんの朗読作品を聴いていただければそれで充分です。この作品のすべてはここに込められています。なぜそう言い切れるかというと、おまゆさんの朗読作品が原作よりはるかに素晴らしいからです。おまゆさんは「そんなことない!」と言われるかもしれませんが、原作を書いた本人が言うのですから間違いないです。

 聴かれた方も、原作者の方も感じておられるはずですが、朗読とは本当にすごいものだな、と、あらためて思いました。

 おまゆさんというプリズムを通して、原作がまたちがった色と光で彩られる。原作に対する愛情と真摯さに胸打たれる。そして時には今回のように原作になかったものさえ与え、生まれ変わらせてしまう……。これを「作品」と言わずして、「アート」と言わずして他になんというのか。小説、エッセイ、論考、写真、イラスト、ハンドメイド作品…それらとならべてもなんら遜色ない、おまゆさんが生み出した「作品」「アート」だと、ここでまた断言させてください。異論のある方とはお友達になれません笑。

 私もnoteのなかを隅々までみているわけではないので言い切れませんが、朗読作品をしっかりした記事としてあげている方はほとんどいないのではないでしょうか。ためしに検索してみましたが、やはり数人いるかいないか、でした。noteのなかではかなり稀有な分野なのです。



 おまゆさんとは、私がnoteのなかをさまよっていた頃、出会いました。この作品です。


 フライパンというなにげない日常の道具を通して老いていくこと、生きていくことそのものへの愛情が詰まったエッセイが「じんわりとからだの芯に染み入り」、すぐスキをつけ、コメントを残し、フォローさせていただきました。

 その直後、このエッセイの朗読作品を聴きました。その「ほんのりあたたかい真っ白な毛布」のような心地よさに、失礼ながら最後ちょっと寝ちゃったんですね。そのことを正直に謝りつつコメントしたら、おまゆさんは「ちょっと寝ちゃうくらい、がわたしが求めてたものです」と、かえって喜んでくれました。その優しさがすごく嬉しかった。

 そのあたりからかな、おまゆさんが私と仲良くしてくれるようになったのは。

 お手紙noteの交換をし、第一回noハン会でも作品を出し合い、Twitterでもやり取りしてくれたり、朗読作品も贅沢なことにこれで三作目。『街をこぐ』も「私にとって特別な一作」と言っていただき、その朗読作品を『読む聴く小説週間』の最後まで飾らせていただきました。それ以外でもいろいろやり取りさせてもらったりと、考えたらずいぶんよくしてもらっているなあ、と改めて思います。ありがたい、幸せなことだ、と感謝の念しかありません。ありがとうございます。

 今、おまゆさんは他の方々と共にnoハン会2ndの準備、よもぎさんとのラジオ「もたレディオ」の配信、「読む聴く小説週間」の第二弾作品募集(また応募しようかな……)と、全速前進で動いておられます。その行動力にはいつも感心するばかり。またそのまわりの方々を惹き付けて止まない明るさに、私もまた魅了されています。

 「ほろほろと流れる感動の涙が、この世で一番美しいと綺麗事をいう」おまゆさんと、これからもずっと仲良くさせていただければ、と勝手ながら思っています。

 そして、なにより。

 いつか、かならず、会いましょう。




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