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私たちこそ笑顔で

五歳の時、原因不明の腫瘍による脊髄損傷が原因で下半身まひに侵され、車いすになった。

つらいこと、苦しいことは多々あった。階段や段差がのぼれない。外出先に使えるトイレがない。湯船にお姫様抱っこでいれてもらわなきゃいけない。学校や職場でうっかり失禁してしまう…

でも、ひそかに、もっとも嫌なことがあった。

それは「子どもの視線」だ。

店で買い物をしている時、道を車いすで進んでいる時、ふと違和感に気づく。少し離れたところで、子どもが不審そのものの目でこちらをみている。視線が合うと逃げるように走っていき、親御さんに抱きつく。まるで幽霊にでも出くわしたように。

幼稚園、保育園くらいのちいさな子どもだと、まだそれくらいですむ。ただ小学3、4年くらいの男の子に、言葉がきたなくて申し訳ないがたちの悪い子たちがいる。

先日もスーパーで私を見かけると、ひそひそ話をしつつ、薄笑いを浮かべながら、遠巻きに私を見ていた。うんざりしつつも無視して品物を取り、別のコーナーに向かうと、また「視線」を感じた。顔をあげるとその子たちがいた。わざわざ別の通路からまわりこんで追いかけてきたらしい。そしてまたひそひそ話。さすがに嫌気がさし、眉をひそめて見返すと、その子たちは「にげろー!」とばかりに走っていった。

こんなことは、本当に数限りなくあった。

でもこういったことは、これでもだいぶ少なくなった。バリアフリーという言葉がある程度定着し、学校の授業で教えられる機会も増えたのだろう。

そしてなにより、私が「車いす」という「障がい者」を象徴するものを使っているのが、実は大きいと思う。世間が「障がい者とは?」ときかれて思い浮かぶ姿はなにか。駐車場や多目的トイレのマークを見れば容易に想像はつく。私は「障がい者の典型」なのだ。

ここで、パートナーの話をさせていただく。

はじめて書くが、パートナーも「障がい者」である。といっても、車いすは使っていない。身体的にはまったく問題はない。こころにハンディもない。「普通に」歩け、見え、聞こえる。肩こりと、最近ちょっと太ってきたことを気にしているが、健康そのものだ。

でも、「見た目」は明らかに「普通」と違う。それは本当に一目でわかる。詳しくは書けないけど、いわゆる「障がい者の典型」からは、かけ離れた姿だ。

もちろん、それはちいさな子どもたちにもわかる。

彼女も、前述してきた「子どもの視線」に、私以上に苦しめられてきた。「障がい者の典型」でないことが原因にあると、勝手ながら私は思っている。視線だけでない。中学校ではからかいやいじめにもあったようだ。幸い、今でも仲の良い友人たちの助けで、不登校になったりはしなかった。その友人方には、いつか感謝を伝えたい。

それでも「子どもの視線」が、彼女にとってひどく重い枷であることを思い知ったできごとがある。

もうだいぶ前、共に暮らしはじめてまだ3年くらいだったろうか。私たちはその日、ユニクロで服を選んでいた。彼女とブラウスを見ている時、母親と5、6歳くらいの女の子がやってきた。女の子は彼女を目の当たりにした瞬間、顔ががちり、と固まった。しばらく彼女を上から下まで、じろじろと見た。

もちろん、パートナーは気づいていた。でも知らぬふりをよそおい、服を選び続けた。私もおなじように、これなんかどうだ、と、普段通りに接した。

だがまもなく発せられた女の子の言葉に、パートナーの頬が青くなった。

「ねえ、なんであのひと、○○なの?」

母親は私たちに振り返ると、女の子を無理矢理抱きかかえ、その場を去った。

無言のまま買い物を済ませ、車に向かっていると、パートナーが立ち止まった。手の甲で目元を拭っていた。

「こんなことでいちいち泣いてたら、おれら、どこにも行けなくなるぞ」

おろかにも私は、親子に対する憤りを、パートナーに向けてしまった。パートナーはわかってる、といったようにうなずきながらも、しばらく目元を拭う手をとめられなかった。私はなにもできず、彼女のそばにたたずむしかなかった。

こういう時、どうしたらいいのか。

ずっとずっと考え続けてきた。無視。そ知らぬ振り。にらみ返し。説教。答えをさがした。若い頃はあまりにしつこく、からかいながらついてくる男の子たちを逆に追いかけ、叱責したこともあった。男の子たちは顔をひきつらせて「にげて」いった。その日は汚いものを飲み込んだようなような感覚に、ずっと苛まれた。今も思い出すことがある。学校や教育委員会に「もっとしっかり、こういうケースに対するマナーを教えろ」と投書しようか、真剣に悩んだこともある。

答えは見つからないまま、時は過ぎていった。

ヒントをくれたひとがいる。

ほかならぬ、パートナーだった。

去年の盆休み、スーパーでおなじ職場の男性とその家族に偶然会った。そばにはその男性のパートナーと、ふたりの姉妹。

プールに行ってきたんですよ。それはいいねえ。そんななにげない会話をしていると、ふとあの「視線」を感じた。お姉ちゃんの方からだった。確かその時4年生。お姉ちゃんは隣のお母さんにたずねた。

「ねえねえ、このひと、○○だよ」

場が凍りついた。職場の男性は困惑そのもの、私もそうだった。

その時、パートナーがお姉ちゃんに話しかけた。

「うん、ちょっとちっちゃいときにいたくしちゃってね。でもいまはだいじょうぶなんだよ」

優しく語りかけたパートナーの顔には、いつもの明るい笑顔が浮かんでいた。

凍りついた私たちは、ふっとやわらかさを取り戻した。

お姉ちゃんは、ちいさくうなずいた。かんちがいかもしれないけど、お別れの時、少しだけ手を振ってくれた気もした。

無視。そ知らぬ振り。にらみ返し。説教。叱責。他者へのえらそうな意見。社会への怒り。憎しみ。

答えは、そのどれでもないのかもしれない。

変わるべき、変えるべきはまわりではないのかもしれない。

私たちが、いや、私たちこそ笑顔を浮かべてみたら。

子どもたちと「視線」を重ね、笑ってみたら。

そして、その子たちが笑い返してくれたら。

答えは、まだ、探し中だけど。



「君が笑えば この世界中に
        もっと もっと 幸せが広がる」

                                          『ハピネス』 by AI





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