MODELカバー1280x670

 一瞬、きっ、と私を睨みつけるような険しい表情を見せたが、すぐに元の微笑みを造っていた。背中にかかる艶《つや》やかなまっすぐに伸びた黒髪が揺れている。
 「先生、きれいに描いてね」
 「           」
 私は、再びキャンバスに向かった。と、いうよりもキャンバスに隠れたという方が正しいかもしれない。
 私の身体は、その意識とは別に、素直に娘への欲求を誇示している。
 悟られてはならない。
 そんな屈辱的なところを見せるなど耐え難いことだ。
 私は震えながら、この女の力を振り解《ほど》こうと、藻掻《もが》くようにして精一杯筆を動かした。そうするしかなかった。
 娘の肌はどこまでも白く、まわりの空気とその境界線をはっきりさせないほど線は細く、しかもその弾力は、この距離から見ても感じるくらいに、弾けんばかりの力に充ち満ちている。信じられないようなバランスを保っている。
 天井に開口した明かり窓から白い陽光が差し込んできた。太陽が中天に差しかかる時間になっていたのだろう。光の粒子が白い光線となって彼女の上に降り注いだ。
 娘のカラダを包んだ光の粒は、透明なうっすらとした肌のうぶ毛にまとわりつき、きらきらと輝いている。まるで、彼女のカラダ全体が微かに発光しているようにも見えた。
 奇跡だ。今、この瞬間……
 どうしようもなく、まじまじと、彼女を見つめていた。
 彼女は私のそんな視線に感づいているだろうか。
 彼女のラインに沿って視線を上から下へと這わせていく。
 その端正な顎の輪郭を強調するようにまっすぐに伸びた細い首。一筋一筋が艶やかに輝く黒髪は首筋から、ふわりと肩にかぶさり、鎖骨は計算され尽くした直線で三角形を造形している。そして、その先端のくぼみから、微かに膨らみかけた胸の谷間へ緩やかなカーブを描いて娘のラインは続いていく。
 微かに膨らみかけた柔らかな胸。少女でもなく、女でもないmarginalな膨らみ。これだ。これがこの娘の力を完璧なものに仕上げているんだ。直感的に私はそう感じた。
 乳房は、色づき始めた桜色の花の蕾のようで、きゅっと引き締まって、かすかに上向きにつきだしている。
 腰のくびれ。少女の肉付きがわずかに残っている太もも。カラダを中心で支え、バランスを保っているかのように見える臍《へそ》。
 見ようによっては、どこか虚構的な、精密に人を模した人形のような、そんなイメージを与えさせる娘のカラダの中にあって、下腹部に生えた密やかな体毛だけが生身の実態感を感じさせる。
 白く輝く薄い皮膚の下地の上に、黒く細い線が集まり絡み合って造形しているその部分が、妙なコントラストとなって私の網膜の中へ飛び込んでくる。あまりにも鮮烈な刺激となって突き刺さってくるその力から、私は思わず逃げるように視線を逸らしてしまった。
 それほどまでに圧倒的な娘の力と対峙していた。
 それでも私は娘のカラダを追っていく。追わずにはいられない。
 軽く揃えて、ななめに傾けられた両の脚。華奢で、大切に扱わないと壊れてしまいそうな足首。フローリングの上にそっと乗せられた素足。上質なパールのような輝きを放っている愛らしく丸みを帯びた指先の爪。
 それら一つ一つが私の本能をかき乱す。どの部分をとってみても、細部に至るまで、彼女を構成する何かが、特別な空気を生成して私を包み込んでくる。私の画家としての技量を試そうとしているかのように。
 この身体の奥底からこみ上げてくる震えを、どのように表現すればいいのか。私の混乱は益々深みを増していくばかりだ。
 彼女の髪の色一つにしても、その色合いがどうしても出せなくて、先ほどから何本も何本も絵具《えのぐ》をパレットの上に絞り出しては混ぜ合わせ、気に入らなくて、また次のチューブを探している。
 本当に彼女を描き上げられるのだろうか?
 この娘の全身から放たれる光沢の色合いは複雑で、微妙な色彩の融合によって成り立っている。
 瞳、唇、肌、爪、それらは、どの色と、どの色を何パーセントの割合で調合すれば表現できるのだろうか?
 いつもより多く使いすぎているテレピン油の臭いが立ち昇ってきて、私の嗅覚を麻痺させる。そのせいなのか、空気が陽炎のように揺らいで見える。
鼻孔から入り込んだそれは、末梢神経の先端に至るまで伝播し、麻痺が全身に伝わりそうで、身体の内から恐れにも似た不安な気持ちがこみ上げてくる。その不安は打ち消しても、打ち消しても、打ち消したそのわずかな隙間に滑り込むようにしてまたこみ上げてくる。

  絵画は写真とは違う。

 それが私の信念だった。私が長年かけてやってきたことは、被写体《モチーフ》をそのまま写実することではなかったはずだ。そのものの本質をいかに自分の中に取り込むか。そのものの素材を通して、いかに自分自身の内面を表現できるか。キャンバスの上には常に自分自身があった。その時の自分の感情、自分の感性、インスピレーション、それらがモチーフと一体になってキャンバスの上に造形され、彩られ、紡がれていく。私が今まで描いてきたものは私そのものだった。
 そんな信念が、今、少しずつ、少しずつ崩れ落ちようとしている。剥がれ落ちた私の欠片が彼女の深淵の中に深く落ちていこうとしている。
 彼女を私の中へ取り込むことなどできるはずがない。完璧に彼女の前に屈服させられ、首根っこを押さえつけられて混濁した絵の具の中に顔を突っ込んでいるというのに。
 彼女をそのままに描き写す術も見つけられない。なんて惨めなものか。惨憺たるありさまではないか。
 年老いた私の感性など、彼女の若さは否定し、拒否して、受け付けてもくれはしないのか。許されないのだろうか。
 否。そんなはずはない。私にだって彼女と同じ頃はあった。彼女と同じものを見ていた時があった。あの頃の感動した想いや、感性を忘れてはいない。これまで、どれだけの感動を積み重ねてきたことか。いくつものすばらしい刺激を享受し、私の体内からはち切れんばかりにほとばしるものをキャンバスに注入してきた。
 今、こうして、彼女を描けないということは、これまでの私の存在(作品すべて)が無意味で、無価値なものに成り下がってしまう。私自身を否定してしまうことだ。
 今までで最も偉大で大きな感動を目の前にしているのに私にはなす術がない。
 彼女の放出する圧倒的な力は、私の感性の許容範囲を遙かに超えたものなのかもしれない。
 私の積み重ねてきたものは彼女を包み込むこともできないくらいに愚かしいことだったのだ。
 それに満足し、ほくそ笑んでいた滑稽な私が見える。甚だしく勘違いをした愉悦に浸っていた。逃げ出したい。
 このまま老いさらばえて益々感性は鈍り、何もできないまま、何も見えなくなってしまうのだろうか?
 しかし、彼女を描きたい。目の前の娘を描き尽くしたい。今感じている私の感動を表現したい。
 欲求が強まれば強まるほどに、彼女への感嘆と畏怖は私の体内でジレンマに陥り、焦燥へと移り変わってゆく。
 締め切ったアトリエの空気が澱んでいるせいなのか、少し息苦しくなってきた。
 咽のあたりから胸へかけて、もやもやとした重たい痼《しこ》りのようなものが降りてくる。
 「窓、少し開けてもいいかな?」
 「うん。いいよ」
 私は、彼女の後ろへまわり、カーテンを少しずらせて、五センチほど窓を開けた。
 あまり大きく開けると、彼女を構成する細胞の組織が分解して湯気のように蒸発し、その開いた窓の隙間から逃げてしまう。そんなありえない光景が頭の中にふっ、と浮かんだのだ。
 何を、ばかな……。
 彼女はもとの姿勢で前を向いたまま動かない。
 「寒くはないかい?」
 窓に向かったまま、背中の彼女に問いかけた。
 「ううん。ぜんぜん、平気」
 彼女の声が心地よく私の中へ沁《し》みいってくる。
 部屋の外の緩やかな風の流れが心地いい。
 先ほどまで、締め切ったこの部屋に、浄《きよ》く澄んだ白い日差しを届けてくれていた太陽が今は見えない。空には、水に溶いた絵の具のような重い色合いで、いろいろな灰色が幾層にも重なり合った雲が低く垂れ込めゆっくりと流れている。
 こんな場面をいつか夢の中で見たような気がする。
 大きく息を吸い込んで、無意味な既視感をふり払い、カーテンを引いて、くるりと振り返り、またキャンバスの前へ戻った。
 彼女の後ろで、薄手の生地で出来た生成り色のカーテンが風に吹かれて揺らいでいる。小刻みに震えていたかと思うと、急にふわりと大きく膨らんでみせる。その瞬間、風の姿を見たような気がした。彼女の背景として最もふさわしいもののように思えて、こんなことならもっと早く窓を少し開けて、こうしておけばよかった。

(続く)

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