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【Vtuber】「ファン」と「アップデート」

Vtuberと運営とのいざこざが目につくようになって久しいが、Vtuberファンの一人として今この文章を読んでいるあなたはどう感じているだろうか?
また、問題ではなくともファンやアンチがVtuberの活動方針など本人が決めるべきことについて自身の定義に基づいて批判することをどう思うだろうか?

契約など内部の事情、Vtuber自身の個人的な問題、運営側の企業としての問題、双方のいざこざ…様々な問題があると思う。
そしてその都度ファンが運営を糾弾する、またアンチがVtuberを批判するという流れはVtuberファンであれば思うところもあると思う。

当事者同士の問題であり、ファンは「問題」に対して適切な意見を述べることも大切なことだと感じる。しかし、実際目につくところで多いのは、運営やVtuberその当人たちに向けての批判だ。
そういう行動にでてしまう気持ちは正直なところ分からなくはない。
感情的になってしまうのは好きだからこそ、あるいはどちらかが嫌いであれば必然である。

しかし「考える」というステップが非常に浅いように感じるのも確かだ。
よく問題のその本質をとらえられているのはごく少数だと感じる。
私自身も本当のところその本質にたどり着けないことも多いと思う。
だが、Vtuberの活動や運営の方針とはまた別のところに問題があるケースすらも「Vtuber/運営の問題」として提起する傾向は、業界の先を見たときメリットがない。

よく考えれば、法律上の問題としてそもそも違法であったり、労働環境であったりと運営以前の問題であったり、運営会社のさらに上の企業の問題であったりもする。
「Vtuber/運営の問題」ではないという答えに到達しづらいというのが現状だ。

コンプライアンスの面や教育課程やガイドラインが十分ではないなど本来やるべきことをしていない、やるべきでないことをしているという運営は除くが、一方的に運営に問題があるという批判も褒められる行動ではない。
確かに適切な意見の発信や、運営側がそういった意見を拾うなどの改善に向けたファンを絡めた取り組みは大事だ。
しかし、一方的に運営を悪だと決めつけ叩き、批判するとどうなるかを考えずに行動している人間が目立つ。
ファンにすらそういう人間がいるのが非常に厄介だ。

そういった行動を起こされているのを運営会社の上役やさらに上の企業が見たら、さてどう思うだろうか?
場合によっては最悪Vtuber事業からの撤退も十分にあり得る。
それを最悪のシナリオとするのであれば、ファンの行き過ぎた行動や発言というものは火に油を注ぐのと同義である。

己の正義感を振りかざし、悪だと決めつけたものをとことん叩く
そして自分の好きだった対象すらも消し去ってしまいかねない行為を行っていないか是非一度考えて、そのうえで運営側・Vtuberがより良い活動をしていけるような意見を発信するのが肝要である。

ファンやアンチだけではなくいわゆる「物申す系」と言われる人々の存在も問題視すべきだと思う。
もちろん中にはしっかりと考えてそれでも理屈は通る人間がいるのも事実だ。
しかし、その中にもやはり自らを正義として結果として人を傷つけ最終的に遺恨のみを残した人間もいる。謝罪をした方がいいとは思わないが、事実が悪だとも、真実が正義だとも限らない。
少なくとも遺恨を持ってしまった人間には、そういった正義は必要がなかったわけだ。
場合によっては、第三者を巻き込んだり法的な問題に発展するケースもこれからあるかもしれない、どこの誰だか特定されるようなことがあれば犯罪の被害者になる恐れもあり非常に危険だ。

そしてそれに影響されてしまう普通のファンもいる。
あろうことか自分が好きなVtuberの「推しマーク」をつけていたり、推しているVtuberの画像をアイコンにしてTwitter上でそういった危険と隣り合わせの意見を肯定してしまうファンもファン同士の争いの火種になりかねないうえに、おそらく本人はその推しに見られるかもしれない、見たらどう思うかなど考えもしていないのだろう。
もし仮にその推しやその運営が問題を起こしたときに、その人はどう行動するのだろうか。本人や周りの人はよく考えてほしい。

そして、自らの感が飲みに固執するという部分で、そういった正義とつながる部分でもあるのかもしれないが「定義論」などもよくとりざたされる。
個人的に1年半以上Vtuberブームを見てきた中で定義論が巻き起こることは何度もあった。「これはVtuberではない」「これこそがVtuberである」「これをしていないからVtuberではない」など様々な形をとって定義論というのは巻き起こる。正直なところ見飽きたようなところもある。

モデル1つをとっても様々なタイプがある。
2Dモデル・立ち絵、3Dモデル・立ち絵、手描きイラスト、紙、人形、実写モデル…そもそもモデルがないというパターンも存在する。
そんな中で「これこそがVtuber」だと定義付けをして声高らかに宣言する人間には視野が狭いという他ないし、あまつさえ活動方針やスタイルに対してまで批判をする人間がいる。
活動書記と比べたり自身が思ったVtuberではなくなった…などで批判をするというのはいささか度量が狭いのではないだろうか。

嫌いになった、方針が変わったからファンをやめたのであれば静かに去ればいいのである。なぜ見ている側の都合にVtuberが合わせなければならないのか。自身のニーズを満たしてくれないからといって何故批判をするのか。
価値観など人それぞなのだから去ることを誰も咎めたりはしない。むしろ咎めてはいけない。

その批判に価値はあるのだろうか?
結論から言えば、ないだろう。
表現者は自由であらねばならないと私は思う。
自らが信じ理想として描くものを追ってこそだ。

最近Vtuberを知ってVtuberにハマり始めた人間はまだしも、2017年後半からの加速度的なブームの速さを体験していてもなお自身の固定観念を払しょくできない人間もいる。
その凝り固まった考えこそがVtuberという業界の可能性や考え方、表現の幅を狭くし各業界への進出などの妨げになると感じる。

各所で私も言っていることだが2019年のVtuberは「ファンの動き」の年だ。
今のところどうしても悪い部分が目立つような動きになっている気がする。
もちろんリアルイベントの動員やグッズの購入、Twitterのトレンド入りなどいい面もある。

しかし、だからこそしっかりと考え、正義感や固定観念に縛られない新しいものの見方が必要になってくる。それが業界やVtuberの活動や可能性の広がりとなり文化として定着すること、好きなVtuberの活動の盛り上がりや活動期間の長さにもいい影響があるだろう。

Vtuberや運営だけではない。
我々ファンも様々な面で時代に合わせたアップデートが必要だ。

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