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『パスト ライブス』のフレームの不在

終盤に関する言及あり。

フレームの内側で

 スクリーンのフレームの内側に、対象を囲うもう一つの四角形を作るフレーム内フレーム。セリーヌ・ソンタグの『パスト ライブス』(2023)で多用される「フレーム内フレーム」ショットは圧巻だ。初恋の相手ノラ(グレタ・リー)を想うヘソン(ユ・テオ)にとってフレームとは、離れ去った彼女を写す窓であり、彼らが物理的にも精神的にも離れ離れの世界にあること、また常にノラが去っていく人であることを強調する。ノラにとってフレームは自分自身を囲うものであり、それはヘソンから見た彼女を収めたフレームとは異なり、記憶イメージとして我々に提供される。

観客の代弁者として疑問を投げかけるカメラ

 この映画は登場人物三人を傍観するショットから始まるが、彼らの声は聴こえない代わりに、彼らを眺める人物たちの会話が聴こえる。「あの三人の関係はなんだろう」。すると、ノラはそう問いかける観客の代弁者、カメラを眼差す。

「我々が何者であるか」をこれから伝えるための眼差し

映画は過去へと遡り三人が何者かを我々に提供するが、それを提供するのは「who are you」と尋ねる我々の疑問に対するノラ自身の解答であり、その媒体は映像記憶というわけだ。そうした映像としての記憶を強調するために、ノラは自らをスクリーンに囲って見せる。そして、彼女にとっても、夫となるアーサー(ジョン・マガロ)はフレームに囲われて登場するが、その運命を予言するかのように、彼はフレームを超え手前にある彼女の世界へと入って行く。

アーサーはフレームの奥から登場し彼女の人生へ入って行く

 本作においてフレームを作る多くは窓枠であるが、他にも優れた画面作りとしてSkype通話におけるPCモニターがある。韓国とアメリカを結ぶお互いを写したモニターは、二人が意識はし合っているものの、手の届かない場所にいることを強調する。監督はこの会話を正面から撮らず、肩越しに切り返してみせるが、この切り返しは距離は縮まらないが時間だけが経過していく様を描写する。
 また逆行も多用されている。光を浴びた被写体の影を映画は濃厚に写していくが、自由の女神観光前に港でフェリーの窓を通過する二つの影は素晴らしい。再会の後、二人は観客から遠くに位置付けられ、逆行に晒され、反対に背景のピンボケにより世界と断絶される。

ポスターにもなっている高架下の観覧車の前では、ガラス窓の内側に二人で収まる。しかし、その視線はすれ違う。二人が同じ世界で生きることができないことを予感させる。

 『パスト ライブス』は以上のように、叶わぬ恋を抱く男女の間に線を引くのと共に、記憶イメージとしての映画の可能性を肯定する。

フレームの不在

再会

 しかし、それ以外のショットは一体どうしたことだろうか。例えば感動的となるはずのニューヨークの公園での再会シーン、周りを見渡し彼女を探すヘソンを振り向かせるのはノラ自身による声である。濱口竜介の『寝ても覚めても』(2018)に狂った者であればあの冒頭の演出を予感させる「振り返り」は音声により処理されてしまう。また、そこで彼が見たノラは如何にカメラに写るのか。境界線を無にし、出会う彼女は微妙な距離感でとらえられ、決して西谷弘の『マチネの終わりに』のラスト──あそこもニューヨークの公園だった──のクローズアップは採用されない。

恋焦がれる相手が同じ世界に存在する際の景色が劣るはずない。これもやはり二人の運命を予感させるためのあえてのつまらなさなのか。
 では、夫とベッドで会話するショット、夫婦の家での二か国語のやり取りをする際のつまらなさとは何か。これはフレーム内フレームの多様が導いた普通のショットのつまらなさではないだろうか。

バーへの回帰

 再び時はバーへと戻る。韓国語によるノラとヘソンの会話はアーサーを疎外するが、そこでカメラはノラとヘソンのみを写す。これは確かにスクリーン=フレームが持つ本来の意味を発揮しようとしている。筆者もこのバーにおいて、それまで凡庸だったショットが完成されたらダグラス・サークとの協議の上、全て許し給う気持ちでいた。輪廻転生を謳った物語が冒頭のシークエンスに回帰し、フレーム内フレームにおいてしか心動かされるショットが存在しなかった映画が、ここでフレーム内フレームを用いずにここでショット──筆者は蓮實重彦と距離を置きたい──が完成されたならば、涙を流すつもりであった。しかし、果たしてあのショットが、心動かされるものであっただろうか。

画面の手前

 では、ラストシーンはどうか。画面左方向──それは過去を指すのだろう──へと歩くノラとヘソン、そして別れの後に画面右──言うまでもなく現在であり未来──へと一人向かうノラとそこで彼女を迎えるアーサー。この横移動の最後に、二人は玄関へと向かうが、それが画面奥へと進むのも良い。確かにこの一連のシーンは良いのだが、その後の翌日ニューヨークを去るヘソンをとらえたショットはいかがなものか。それは幼少期、ノラと離れる際に見せた後部座席から顔を覗かせるショットの反復である。顔が崩壊したオブジェの如く、車窓の縦の線で切られた少年の顔ははっきりとここでは保たれており、反復としては良い。しかし、彼が見るべきは画面の手前なのだろうか。言い換えれば、ここで彼の顔を撮るべきだったのだろうか。直前のシーンで奥へと消えたノラを「見る」のであれば、ここは彼を後ろから撮っても良かったのではないか。もちろん、その方向は、新しい未来の方向かもしれない。しかし、彼の視線の先、映画館にいる我々なんて見て楽しいか?

眼差しと後ろ姿

 なぜ、ここでヘソンの顔を撮るのか。この映画はどうも顔に拘り過ぎなように思える。思い返される後姿は幼少期に母親が子どもたちを見ている後姿だ。

ここで大人と子供の間に引かれる斜めの線はその世界の断絶を示し、かつそこで奥の世界を眼差す母のその眼差しは、直接目を撮ることをしない代わりに後ろ姿で示される。この素晴らしいショットが成立してしまったのは、傍観しかできない我々観客の位置を監督が定めていたからであったが、それ以降同様の後姿が不在なのは、観客を奥に位置付けられた世界へ取り込むためか。セリーヌ・ソンタグも『バビロン』(2022)で映画と観客の間に「繋がり」という虚構を見誤ったデミアン・チャゼルと同じ過ちを犯している。その眼差しを隠しながら後姿を向けることを止めてしまえば、「見る」経験というものは映画にとって価値を持たないものになるのだ。映画は常にそこにフレームがあることを意識しなければならない。それを意識した監督たちの近年の傑作について書いたものを以下に添付し本稿を終える。

文:毎日が月曜日

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