見出し画像

『バビロン』とは何か?

 批評誌『ユリイカ』ゴダール追悼号(2023年1月15日発行)に掲載された久保宏樹による論考「映画、批評、世界 三位一体の伝統」において、久保はゴダールの映画が常に「映画とは何か」という問いに応えてきたことを指摘する。久保は「映画とは何か」という問いを「映画とは何によって成り立っているのか」、「映画はいかにして生み出されるのか」、「映画はいかにして世界と関わるのか」という三つのカテゴリーに分解し、それぞれの観点からゴダールのキャリアを書き連ねるが、興味深かったのは第一のカテゴリー(探求)「映画とは何によって成り立っているのか」に対するゴダールによる応答だった。
 『勝手にしやがれ』(60)は小型カメラの性能を説明し、『軽蔑』(63)『パッション』(82)は反対にスタジオ撮影の大がかりな体勢を説明する。『恋人がいる時間』(64)では映像がネガからポジへと現像されたことを、『ウイークエンド』(67)はフィルムによる長回しを、ゴダールの映画における繋ぎ間違いは編集を説明する。ここで「説明する」と書いた部分は映像によって表される。僭越ながら付け加えるならば、『女は女である』(61)はカラーを、『女と男のいる舗道』(62)はクローズアップを、『さらば、愛の言葉よ』(14)は3Dを説明する、と言うべきだろうか。晩年のソニマージュの試みは映像を映像そのものとして、音を音そのものと説明しているのかもしれない。
 驚いたのはゴダールが技術的な問題と対峙していたことに、今更ながら気づかされたことだった。ゴダールが映画についての映画を撮り続けていたことは、彼のあらゆる映画において説明されていたが、どこかその「映画」という対象に、文学・芸術・哲学的な問題を通した答えを読み取ろうとばかり考えていた節が筆者にはある。勿論それらのブルジョワ的な要素は全ての作品で語られているが、それは全く「映画」を説明するための要素には付随しないように今は感じられる。ゴダールは映画の技術を用いて「映画」の技術を説明してきた、そう思える。例えばドゥルーズが映画を説明するとき、そこには哲学が用いられ、ジジェクは精神分析を導入する。また彼らの結論も映画とはかけ離れたそれぞれの分野に着地しがちだが、ゴダールは映画から始まり映画に終わる。
 映画とは何か、(例えば)撮影である、撮影とは何か、そう言って『ゴダールの決別』(93)を観る。そこで我々は撮影を「知る」のではなく「観る」。「知る」ことにより映画に価値が生じるのであれば、映画は批評で足りる。しかし、「観る」ことでしかその「映画とは何か」に対する応答が確保されないからこそ、映画は撮られ続けるのではないだろうか。勿論そこで観たことは言葉によって説明は不可能だろう。我々は再び撮影について映画を観ることによって探求する。ゴダールの映画でなくても「観る」ことは可能である。
 また映画においてその技術を説明することはどこか手品のネタ晴らしに似ているが、60年代ゴダールの映画で「女性」に対する欲望のドラマが語られるのは、その欲望が映画によって期待させられた/騙されたものであり、映画を通してそこに写るものの即物性を暴く効果として指摘できる。さらに「映画とは何か」という問いを主題にせず男女の逃避行や三角関係、婦人たちの情事や来る革命への若者たちのアンガージュマンによって物語が構成されることによって、60年代ゴダールはこの問いに付随する罠を見事に回避しているようにも思えてくる。『軽蔑』でさえ映画スタジオを舞台にしていても、そこで描かれるのは原作に基づいた愛の物語だった。ジガ・ヴェルトフ時代以降、『映画史』に向けて映画についての映画が顕在的なものとなるが、ゴダールがここで罠にはまることはなかった。その罠とは何か。ちょうどデミアン・チャゼルの『バビロン』(22)を観てきたところでそれが明確になる。

『バビロン』

 ゴダールの立場に立てば、映画とはどんな物語であれ、上で挙げた方法により「映画とは何か」への解答になっている(し、それを観る人によってどんな映画も「映画とは何か」に応えていると指摘することができる)が、映画というものについて物語で言及された途端、語る映画は劇中で語られる「映画」に内側から法則を課せられる。劇中の映画(B)はそれを撮る映画(A)にとって、「映画とは何か」の応えになる必要があるが、映画(A)も我々観客に対して「映画とは何か」の応えである必要があり、映画(A)と映画(B)が異なる法則・方法で映画を説明してしまう恐れがある。まぁそれでもいい気もするが、気にはなるので続けてみよう。
 特別『バビロン』が劣った映画というわけではなく、ゴダールを描いた『グッバイ!ゴダール』(17)やトリュフォーの『アメリカの夜』(73)も同様の問題を抱えている。ゴダールが批判した趣旨とはずれるが、『アメリカの夜』において、トリュフォー演じる監督は『アメリカの夜』という映画(A)の中で映画(B)を撮っているが、撮影現場(B)で行われる演出指導や撮影はこの映画(A)においては行われていないことがわかる。『グッバイ!ゴダール』は一見60年代ゴダールを彷彿とさせるパロディ演出と編集で構成されているが、主題であるジガ・ヴェルトフ以降のゴダール的方法は内側(B)でしか説明されず、外側(A)ではその方法は放棄されている。
 『バビロン』は、普通の映画である。確かにカットバックで描かれる二人の会話場面はどこか本来二人の役者がそこに居合わせていないような感覚を抱くし、冒頭2,3カット目で挟まれる象のトラック運転手の0.2秒くらいの切り返しなど、意図を読み取れない変わった演出などはあることにはある。前者は傑作『ファーストマン』(19)でも徹底されていたため単にマスターショットが撮れないわけではないが、しかし、本作においてどういった効果を狙っているのかはわかりづらい(『ラ・ラ・ランド』(16)のカットバックは効果としては良いが唐突に感じられた)。
 そうした普通の映画のスタイルで貫かれた本作が扱うのは映画史らしい。ラストの映像から「本作は映画史を扱っている」と反芻する作りになっている。が、戸惑いを覚える。言うまでもなく最後の映画史モンタージュが問題である。あのYouTubeのMAD動画じみた映像のチョイス、映画ファンであれば誰でも題名を当てられるカットの寄せ集めについて言及することを避けてもあのシーンが問題なのは、あそこで挙げられる映画群、そのショットの法則を『バビロン』は全く採用していないことだ。モンタージュ、カットバック、トーキー、ウェルズ・バザン的ワンカット撮影への映画史の変換を指摘するにしても、『バビロン』という映画は全編一貫したスタイルで撮られ続ける。確かに、そのスタイル自体は単体で見れば一つの「映画とは何か」という解答になっているとも言い得るのかもしれない。ただし、『バビロン』のスタイルと「トーキーへの移行」という史実には連関がない。ここにズレがある。気になる。
 映画内(A)の映画の法則(B)に従い、『バビロン』はトーキーの導入のシークエンスまでをサイレントで、それ以降をトーキーで撮影すれば良かったのか、というのは誤りである。それは時間の逆行を扱った『テネット』(20)を全編逆再生で映写機にかけるのと同様のアイデアである。
 重要なのは劇中描かれる映画への愛だ。映画制作にせよ批評にせよ全ては映画愛から生じる。『バビロン』の中にも映画愛が溢れている。しかし、その愛は同様に映画愛を以て『バビロン』を鑑賞する我々観客と同様のものとして描かれている気になれない(俺の愛し方とチャゼルの愛し方は違う…!)。
 『バビロン』の劇中劇(B)で説明される、マーゴット・ロビーの涙とブラッド・ピットの蝶が感動的なものであるとチャゼルが劇中に存在する観客に説明するなら、我々に対しても同様の方法で説明する必要がある。でなければ、映画(B)で描かれる感動など虚構に陥るのだ。その結果、虚構のまま見せられる映画史の断片は陳腐なものへと成り下がる。さらに問題なのは映画(B)による観客の感動は、しかし映画(B)自体によるものでは決してないことだ。Bの映画を観ているという設定の観客は、実際にはその映画(B)を見ていないだろう(チャゼル「観客役の皆さん、ここで感動して下さい!」)。我々観客はそのシークエンスにおいて、劇中の観客の演出されたリアクションを経て感動を共有することとなる。『バビロン』(A)のために用意された映画(B)と観客はセットになって我々観客へと差し出されるが、果たしてそこで描かれる映画(B)単体で映画の感動は説明されていると言えるのだろうか。チャゼルは映画を説明しているのだろうか。

『軽蔑』

 『軽蔑』は久保の第二のカテゴリー「映画とはいかにして生み出されるのか」で扱われる作品であり、初期ゴダールが正面から映画制作を描いた映画、指摘したように主題は不倫の物語であるが、この作品から説明される「映画とは何か」の解答は『バビロン』にヒントを与えてくれるだろう。
 『軽蔑』(A)でフリッツ・ラングが監督する『オデュッセイア』(B)について我々観客に与えられている情報は少ない。ラッシュを観るシーンなどで挿入される、彫刻を軸に45度半円を描くショットがその作品であるが、彫刻という静止した物体に動きをつけるカメラワークは『軽蔑』(A)のラストで交通事故で死んだブリジット・バルドーを撮る横移動で反復される。ここにおいて『軽蔑』(A)と『オデュッセイア』(B)の間に「映画とは何か」のズレは生じていない。
 さらに『軽蔑』の冒頭の存在について考えてみる。『軽蔑』(A)でゴダールにより読まれるキャスト・スタッフクレジットに合わせ画面に写るのは、ドリーの上を移動する撮影中のラウル・クタールの姿だ。クタールは本作のカメラマンであるため、この映像は助手のアラン・ルヴァンによるもので、このカットは最後クタールのカメラとルヴァンのカメラが向かい合う。カメラアイである観客と映画が向かい合い鏡写しになるが、この本来は『軽蔑』を撮影しているはずのカメラ(A)によるカメラ目線は映画の層を一つ追加する(映画X)。この冒頭(X)でクタールがとる撮影法は横移動であり、それは先に指摘したバルドー死亡シーンのカメラワークと同じものである。『軽蔑』(A)という映画は、劇中の『オデュッセイア』(B)だけでなく、その上にある現実(X)間で同じ法則を共有している。
 この共有において久保の指摘する「映画はいかにして世界と関わるのか」が明らかになり「映画とは何か」の究極的な応えが提示されると言えるのではないだろうか。チャゼルが共有すべきだったのは観客によるリアクションではなく、劇中劇と呼応する映画術、そして映画と現実を繋ぐ勇気だったのではないだろうか。その勇気とはまた、「映画とは何か」という問いに対し、「映画とは映画である」と応えるあっけらかんとした反復性のことである。映画は映画であり、女は女であるように、『バビロン』は『バビロン』であれ。

文:毎日が月曜日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?