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観客の加害性を無視する『NOPE』へのヒッチコック/バザン的モヤり。

 本稿はジョーダン・ピール監督作『NOPE/ノープ』(2022年)に関して、あって欲しかった展開、設定、演出という名の願望をただ吐露する試みだ。その前に褒めるところはちゃんと誉めてみたい。ネタバレも含まれているためご注意を。

眼差し論映画としての『NOPE』

 『NOPE』が「眼差し」を取り扱う映画である以上、「眼差し」とは何か、基本的な所をまず押さえておきたい。
 マーティン・ジェイの名著『うつむく眼』(1993年, 法政大学出版局より出版)を読めばわかるが、「眼差し」とは古代ギリシャ以降歴史的に多くの場で取り扱われた議題である。宗教、美術においてはもちろんだが、ここでは20世紀哲学の分野で議論された眼差し論を軽く参照する。つまり映画誕生以降の話である。
 ジャン=ポール・サルトルは、「見る」主体である私は、突然そこに現れた(私を「見る」)他者によって「見る」主体という位置を奪われ存在を脅かされると説いている。なぜなら、私にとって「見る」主体とはこの世にたった一人、自分しかありえず、他者が私に対し「見る」を行使する場合、「見られる」私は客体になり主体としての権利をそこに認めることができないからだ。主にこれは「見られる」側の被害者性の心理とも言える。
 対するジャック・ラカンは、精神分析の観点から、人は誰かから(モノから)「見られる」事によってはじめて「見る」プロセスが働くと説く。我々は、野菜売り場で、緑に包まれる中に置かれた真っ赤なトマトに「見られる」ことを通して、私を見ているそれはなんだろうと思い、そのトマトを「見る」らしい。つまり、これは「見る」欲望についての説明であり、「見る」側の加害者性を擁護するかの如く、人間一般の視覚機能の話をしている。
 スラヴォイ・ジジェクは、主に後者の議論を踏まえて映画を読み解いてきた。有名なのはヒッチコックの『裏窓』(1954年)批評だろう。観客は足の不自由な主人公(ジェームズ・ステュアート)の部屋から、カメラを通してベランダ越しの風景を「見る」。主人公は視覚だけを用いて事件解決を目指すが、ここに主人公とカメラ、そして観客の眼差しが同定される。クライマックス、ミシェル・フーコーのパノプティコンよろしく絶対的な「見る」主体であった主人公-カメラ-観客の方を犯人が「見る」事によって生じる恐怖はサルトルの議論を思い返すことができ、サルトルとラカンの眼差し論が完全に対立するわけではなく、ラカンのそれがサルトルを引き継いでいることも理解できる。
 ヒッチコックは『サイコ』(1960年)などにおいても、窃視としてその主体-カメラ-観客を同定することを好んだが、映画と眼差しはヒッチコック以外においても必然的に結びつく視覚演出であった。『血を吸うカメラ』(マイケル・パウエル, 1960年)やブライアン・デ・パルマの映画、小津安二郎の映画、『寝ても覚めても』(濱口竜介, 2018年)など、映画論的に眼差しを取り扱った作品が挙げられる。最近では『マリグナント』(ジェームズ・ワン, 2021年が眼差し映画の傑作だった。下記を是非読んでくれよな。

 そして『NOPE』だ。『NOPE』においてUFO、「それ」(と呼ぶ)を見てしまうと(最終的には)死ぬ、という設定がついている。なぜ見たくなるのか、それはラカンの言うように見られているからであり、その視線の一致によって存在を奪われるのは、主体の奪い合いというサルトルっぽさがある。というかジョーダン・ピールは知っていると思う。「見られる」を「見る」ことはサルトル(存在論)においてもラカン(快感原則)においても不可能であり、後者がフロイトを参考にした理論を用いれば、欲望の充足とは死を意味するので「それ」の設定も筋が通っている。
 また、ラカンが欲望と眼差し論を結びつけて以降、リュス・イリガライらフェミニストが眼差しを男性中心主義的なものであると反論したように、眼差し論は現代までフェミニズムにおいて多く扱われている。「見る」男性、「見られる」女性という図式は『NOPE』において白人と黒人として表象される。同時にそれは映画史批判でもある。電気屋の兄ちゃんもIMAXカメラおじさんも報道カメラマンも、白人男性陣は皆カメラに精通している。カメラおじさんの死はまさしく快感原則的な死を表している。主人公ら兄妹は、「それ」を「見ない」ことによって勝つ。加害性を捨てる事による勝利に様々な文脈で正しさを見出すことができる。
 こう書いていると、『NOPE』は上手くいってる映画のように思える。だから、以下に述べる筆者の願望というのは傲慢なものである一方、以下で述べられる要素があればもっと面白く、映画史に輝く名作になったと考える。

観客の加害性を認めない『NOPE』

 なぜ観客は「それ」を見ても死なないのだろうか。というのはこの映画を撮るカメラは、登場人物たちが「それ」を見てない時にも、「それ」を写すのだ。なぜ筆者は映画館でくたばらずに、こんな誰からも読まれないであろう文章を職場のトイレの個室にこもって書かなきゃいけないのだろうか。真面目な話である。「それ」を見たら死ぬと言われているものを前にされた時の我々観客の欲望の駆け引き、恐怖をこの映画は無視していないだろうか。
 本作は「見る」主体-カメラ-観客の同一性が存在しない。「見る」の加害性に無頓着なヒッチコックを切り捨てる宣言があっても良いが、台詞で語られるだけの眼差し論はあまり面白いとは思えない。どうせなら観客も巻き込む形で、「それ」は一切カメラに写らず、登場人物たちの顔を撮り続ける映画にして欲しかった。映画をわざわざ見に来たのに映画の方が観客を見ようとしてくる恐怖に震え上がりたかった。
 もしくは、カメラと観客が「それ」の視線になって登場人物たちの後ろ姿を追い続ける映画でも面白い。サミュエル・ベケットの『フィルム』(1965年)がまさにそういう映画だった。主人公のバスター・キートンはカメラとの眼差しの一致を避けて、カメラに後ろ姿を見せ続ける。『NOPE』においても、映画を見たくて映画館にわざわざ出向いた観客たちは眼差しの加害者である、と言ってもらっても良いのではないか。
 また、「それ」の正体にも納得がいかない。筆者は鑑賞中、その正体をカメラだと確信した。中盤の展開から振り返って、冒頭マイブリッジの馬が登場することを思い返せばそう思える。たぶん、ジョーダン・ピールもそれを意図して最終形態においてはバサバサ布みたいなものを広げる設定にしたと思う(シャッターっぽい)。だけど、これは象徴的なイカ怪獣にはせずガチのデカいカメラそのものであって欲しかった。

人間の身体的外見を人工的に固定してしまうこと、それは存在を時間の流れから引き離すことであり、存在を生につなぎとめておくことである。したがって、(古代エジプトの宗教などにおける)死すべき現実そのものである生身の肉体を、その外見において救おうとするのもまた、自然な事だった。
アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(岩波文庫, 『映画とは何か』(上)収録)

 この文章に続くバザン先生のお話によれば、写真、映画は生きる者を永遠に生かす装置にするという。逆に撮影される事で生きる者は魂を吸い尽くされて死んでしまう、という恐れを抱き写真に写ることを避けた人物が19世紀にいたとかなんとか。ロラン・バルトも同様のことを書いていたとかなんとか。
 要するに、殺人カメラだ。「それ」は宇宙人の開発したカメラであり人を食いフィルムに現像する。その殺人カメラの役割を「それ」が担い、更にこの映画を撮影するカメラが「それ」を演じれば、『NOPE』は映画における眼差し論をもっとメタ的に追及する傑作になり得なかったか。ダメ?ダメか〜。

文:毎日が月曜日

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