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スピルバーグ論-『フェイブルマンズ』はフェイブルマンズの呪いを解く。

『シンドラーのリスト』(1993)

 『シンドラーのリスト』(1993)の終盤、大勢のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、彼らの感謝を受けながら涙を流し「もっと救えたはずだ」と嘆く。ジョン・ウィリアムスの劇伴が流れるこの場面はいささか御涙頂戴なシークエンスにも見えるが、スティーヴン・スピルバーグは本気でこれをシンドラーに言わせているに違いない。
 スピルバーグによる救済のモチーフは、史実や原作ありきの題材においてもその後何度も反復されることとなったが、そのような欲望を持つスピルバーグが最新作であり自伝的作品と称する『フェイブルマンズ』(2022)において、映画の「傷つけやすさ」を提示し、その救済不可能性を予感させているのは如何に捉えるべきだろうか。
 本稿ではスピルバーグが対峙する救済不可能性と『フェイブルマンズ』における映画の「傷つけやすさ」を同列に扱う。なぜなら『フェイブルマンズ』という映画は映画についての映画であり、「傷つけやすさ」を克服することが物語内で他者を救済することと同列に語られているからである。また本作が自伝であることから救済願望と「傷つけやすさ」の克服という課題が、『フェイブルマンズ』後の出来事である『続・激突!』(1974)より始まるスピルバーグの映画人生でも継続していると考えられるからである。

第一章 『フェイブルマンズ』の二つの「傷つけやすさ」

 『フェイブルマンズ』では、大きく二つの映画の「傷つけやすさ」が描かれている。

第一節 映画の「制御できなさ」

 一つは、映画は目の前の現実を材料にしなければならない芸術であり、かつその現実は思い通りにいかないという運命である。家族のキャンプを記録していたスピルバーグ青年(ガブリエル・ラベル)が編集時にフィルムを見返してみると、そこには母(ミシェル・ウィリアムズ)の不倫が写り込んでいた。撮影者自ら「地と図」の関係で被写体を定めても、映像は絵と異なりその両者が逆転しうる。リュミエール兄弟が家族の食事を撮った映画を観た観客は、手前に配置された家族よりも、その背後で風によって揺らめく樹木に視点を移し感動したという──『フェイブルマンズ』においてもその目配せなのか、手前で火をおこす父(ポール・ダノ)の後ろで母のぶら下がった木が大きく揺れ始め、子どもたちがそちらに興味を移してしまうという異様なショットが存在する。
 目の前の現実が思い通りにならないという問題は、「地と図」の関係だけでなく「図」そのものにおいても生じる。戦争映画を演出中のスピルバーグ青年は戦場を後にする兵士役の同級生にとある演技指導を行うが、実際同級生がカメラの前で演じたその佇まいは言語化し難い姿であり、意図せず望まない形で表現が成立してしまう。よって映画は現実の風景だけでなく、そこに在る人間(役者)さえも思い通りに動かすことができない。
 作り手と観客、演出家と現実双方にこのズレが生じることを指摘することができる。この演出家の理想と現実のズレに美学を見出すことも可能であり、メルロ=ポンティのセザンヌ論はやや複雑だが、ジャック・ラカンがそれを解釈するところによれば、画家の身体の動きが画家自身の精神(理想の線)を裏切る形でキャンバスに筆を走らせるそのズレこそを評価しているらしい(註1)。ただ、スピルバーグはそうしたズレの美学に両義的な思いを抱いているようである。ハムレットの亡霊の如く亡き祖母から電話がかかってきてからフェイブルマン一家に訪れる「家族」と「芸術」の分断はそれを物語っている。スピルバーグ青年にとって映画は制御できない呪いである。

第二節 映画の政治性

 もう一つの「傷つけやすさ」は高校の遠足旅行の記録映像の上映会の場面で描かれている。スピルバーグ青年は自身のフィルムで、ユダヤ人差別で自分を加害した同級生をたくましい主人公として描き学生は喝采を送る。しかし、その同級生自身は、彼自身にあると思われていた「たくましい主人公」像というものが、映像により簡単に作られてしまうことに気づき動揺してしまう。これは、映画の政治性を示唆している──『フェイブルマンズ』という映画が面白いのは、この映画の効果を劇中で暴く事によりこの映画自体も信用できない語り手によるプロパカンダを帯びていると表明していることだ。

 このように、『フェイブルマンズ』で描かれる映画の「傷つけやすさ」とは、その制御できなさであり、政治性にある。さて、前者の「制御できなさ」は劇中克服されることはなく、スピルバーグはそれを認めているように一見思われる。スピルバーグのフィルモグラフィでは、そうした不条理(「制御できなさ」から生じる「傷つけやすさ」)に抗う物語が作られてきたが、最新作である本作でそれが克服されないということは、彼の諦観に相当するのだろうか。また、後者の映画の政治的策略について、劇中スピルバーグ青年はいじめ加害者と二度と行わないと約束を交わすが、それは今後の映画作りに影響を与えるのだろうか。

第二章 Back to The Fabelmans

 二つの疑問が生じたが、その応答を次回作まで持ち越す必要はない。なぜなら『フェイブルマンズ』はスピルバーグの自伝的作品であり、長編映画を監督するより前に物語が終わるため、その応答は『続・激突!』以降の作品で観ることができると考えられるからだ。これより本稿はスピルバーグが自身のこれまでの作品の中で映画の「傷つけやすさ」と如何に向き合って来たのかを振り返る。
 『フェイブルマンズ』終盤のジョン・フォード(デヴィッド・リンチ)の説教は何を意味するのだろうか。オフィスに飾られた絵を指し「何が見えるか」と尋ねられたスピルバーグ青年は、これまで自分が撮って来た映画に写るものをとらえるように人物の行動を読み取る。しかし、フォードの求めていた解答は”地平線の位置”であった。それはスピルバーグ青年に抜け落ちていた視点だ。スピルバーグ青年は、ここで地平線の位置を中央にしてはいけないと学んだのではなく、それは変えられると学んだのだ。要するに、制御できない現実を前にしても、映画の政治性を駆使すれば現実を捏造することができる。ここでやや断片的に感じられた『フェイブルマンズ』の映画の「傷つけやすさ」のエピソードが一つにまとまる。二つの「傷つけやすさ」は弁証法的な命題であったのだ。
 このフォードの教えを経たスピルバーグ青年は映画監督スピルバーグとして自身のフィルモグラフィを紡ぎ始める──それがスピルバーグが『フェイブルマンズ』で語った物語である。これよりスピルバーグ映画の特徴を物語面と制作(技術/演出)面で挙げてみたい。

第一節 承認をめぐる冒険から救済へ

 物語面の特徴は大きく二つの時代に分けられ、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)から『シンドラーのリスト』辺りがその変換期ととらえられるだろう。前期は主人公の承認をめぐる冒険であり、後期は本稿の主題である救済へのモチーフが一貫したテーマとなっている──こうした対比は「子供から大人」として語られることも多く、前期は自分のため、後期は他者のために決断を下す物語と言い換えることもできる。前期において、主人公は社会の異端者であり冒険を通して社会から承認を受ける、または逃避の道を見出すことが多くとりわけ物語はハッピーエンドで事を終える。『未知との遭遇』(1977)の父親(リチャード・ドレイファス)は家族を捨て自身の夢のため宇宙へ逃避する。博物館のためとはいえ秘宝を求め強欲に冒険するインディアナ・ジョーンズ博士(ハリソン・フォード)についても、その秘宝は無であったり、宝を捨てることにより英雄となることを選ばされる。

『レイダース/失われたアーク』(1981)

 反対に後期において、主人公は他者を救うために決断──そこには多くの犠牲がある──を迫られる。救済を叶えたとしても主人公は何かを失い、社会的承認を受けることはない。
 なぜスピルバーグ映画の物語に変化が応じたのだろうか。制作面での変化がそれに影響を与えていると筆者は考える。

第二節 ヒッチコック+ウェルズ≒

 スタジオシステムから逃れた反抗的なアメリカン・ニューシネマの時代の監督は、その下敷きとなったヌーヴェル・ヴァーグに影響を受けた。彼らはヌーヴェル・ヴァーグ派のシネフィル的要素と異端な映画作りの要素のうち後者のみを崇拝していたと今となっては感じられるが、スピルバーグは同じ時代に登場しながら、スコセッシやルーカスとともに前者のシネフィル的な要素──そこで論じられたのはハワード・ホークスでありアルフレッド・ヒッチコックだ──を継承したと指摘できるだろう。彼らはスタジオシステム的な映画作りに敬意を払っていたが、スピルバーグが特に秀でていたのは、野外撮影においてスタジオ的な画面作りを徹底したことだ。ニューシネマで脇道に逸れたアメリカ映画の軌道修正をニューシネマが汲み取らなかったヌーヴェル・ヴァーグ的方法で行う試みともいえる。
 さらに演出についてもゲリラ撮影を隠さない自由なカメラワークを特徴とするニューシネマとは異なり、ヒッチコックのように画面を絵画のように見立て「地と図」を構成するよう心掛けられている。対してカメラワークはオーソン・ウェルズを思わせる奥行き方向の長回しが用いられることにより、不自由さを感じさせるヒッチコック的な計算された画面に、自由な運動を導入することに成功している。

ヒッチコックとウェルズ、この矛盾した作家同士の合体がニューシネマでいわれるような実録性と相反したがゆえに、スピルバーグの映画は「作り物感が大きい」とされ、キャリアの初期から幼稚という評価が下されてきたことは否定するまでもない。
 では、なぜそうした作り物感を優先させた演出を彼が行うのか。『フェイブルマンズ』を観た我々には理解できるだろう。ヒッチコック流に画面に制限をかけることはプロパカンダと結びつくが、そこで人間が動き回れること、主にキャラクターとカメラマンが自由であることは、被写体である役者に記号的な意味を与えることを避けているように感じられないだろうか。したがって『フェイブルマンズ』で描かれる二つの「傷つけやすさ」、「制御できなさ」は舞台となる背景(地)に対する演出という偽善性(政治性)によって回避され、一方でその政治性はキャラクターを、画面を越えて自由なままにしておくこと──スピルバーグ映画の流動的なカメラワークは「図」に付きまとう──により克服されているように見える。ただし、あくまでも「されているように見える」にとどまってしまうのは、偽善はあくまで欺瞞であるからだ。

第三節 救済のための燔祭

 ニューシネマが終焉を迎えスタジオ撮影が再び主流になった頃、スピルバーグの巨大セットに対する願望は肥大化していく。セット撮影において、「地」に彼の望まないものが写る心配はないように思われ、カメラの行動範囲を視野に入れたスタジオは『太陽の帝国』(1987)や『フック』(1991)で見ることができる。

『太陽の帝国』(1987)

そして1993年が訪れる。『ジュラシック・パーク』(1993)で作られたCGの恐竜はスピルバーグにとって誰も傷つけない「図」になりえただろうか。確かにそうかもしれない。自分の生死に固執していた主人公が、子供たちという他者の命のため奮闘するドラマへと発展する本作は「制御できなさ」の克服から生じた救済願望の原点であると指摘できるだろう。
 だが、『シンドラーのリスト』でその克服は欺瞞であったことを突きつけられる。アウシュヴィッツという括弧つきの「表象不可能性」を本作から見出す映画批評家や思想家──ジャン=フランソワ・リオタールによれば、強制収容所における悲劇を表象することにより事実の悲惨さを隠蔽することに繋がるという──、何よりも『愛の世紀』(2001)でスピルバーグを批判したジャン=リュック・ゴダールを前にしたとき、スピルバーグは自身の物語面と制作面における二つの偽善性と向き合わざるを得なくなったのではないだろうか。「重い」題材を前に、それまでの方法をとることはそれ自体関係者を「傷つける」ことに繋がることを理由に、スピルバーグは偽善的な映画作りを止める必要があったと考えられる。また、プロパカンダの力を用いることはナチスを含むスピルバーグ映画における悪役たちが行うことと同じであることを指摘できる。
 ヤヌス・カミンスキーを撮影監督に起用して以降、スピルバーグの映画は手振れ撮影による、観客がその場に居合わせている臨場感が増す効果と共に作り物感は一切排除されることとなった。扱う題材は重厚なものが増えた一方で職人的な手腕で数々の作品を世に送り出してきた。カミンスキーの撮影のクセはいくらでも指摘することができるが、それ以外でスピルバーグ的な印を作品内で初見にて見出すことは難しくなってしまい、ヒッチコック+ウェルズ的方法は捨てられたようにも感じられる。
 そうした演出面での偽善性の放棄は救済のモチーフの諦めにも通じている。『アミスタッド』(1997)も、『プライベート・ライアン』(1998)も、『宇宙戦争』(2005)も、『ミュンヘン』(2005)も、『リンカーン』(2012)も救済には必ず犠牲者を伴う。一見犠牲者を出していないかのように見られる『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015)で描かれるのは、ジャーナリズムに踊らされる大衆の眼差しである。

『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015)

後期のキャリアではスピルバーグにとって気休め的な作品であり、「軽い」題材と思われる『タンタンの冒険』(2011)はたしかに傑作ではあるのだが、実写を排除し「地と図」を全て支配したアニメーション映画が映画であるのかという問い自体が偽善者によるファシズムという政治性を改めて帯びてしまったようにも感じられる。『レディ・プレイヤー1』(2018)に関しては、ヴァーチャル世界と現実の対比──撮影については明確に対比されており、前者は前期、後者は後期の方法で演出が進められる──において主人公たちはその両立を結論としてとるが、そこに明るい世界は見いだせない。やはり、スピルバーグは諦めてしまったのだろうか。

第四節 『ウエスト・サイド・ストーリー』

 『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)は近年最も過小評価された映画であるが、まさにスピルバーグの最後の変化をとらえる上で欠かせない作品である。内容としては、ロバート・ワイズ版の映画(1961)をベースにしており、結末も主人公の死をもって人種対立が平和的予兆を見せ終わる物語自体に変更はない。しかし、技術面ではスピルバーグのキャリア史上最も革新的な変化が表れている。CG贔屓だったスピルバーグは本作で実写撮影にこだわり抜いている。ワンカットで集団を嘗め回しながら観客が観るべき対象(「図」)を的確にとらえるカミンスキーの撮影は圧巻で、カットを割らずに集団から個へ、また別の個から集団へと写っていくショットでは何が行われているのか困惑してしまう。

そこに偽善性は全く感じられないのは何故だろうか。もちろん、まばゆい照明やミュージカルというジャンルそのものから作り物感は大いに感じられるのだが、目の前で展開されている映像そのものに真実さを感じられるのだ。その映像に写るものとは運動であり、その運動は運動自体の魅力を十分に表す表象としての運動であり、これまでのスピルバーグ映画にはなかった映像概念としてそこに存在していた。   
ここで、『フェイブルマンズ』終盤のジョン・フォードの説教に戻ってみよう。それまで映像の「制御できなさ」と「政治性」に悩まされていたスピルバーグ青年にフォードが教えたのは、その二つの要素を互いに打ち消すことで生じる演出の捏造的効果であると先に説いたわけだが、それと同時に見出せるものがある。スピルバーグ青年は絵からそこで何が行われているか、というコードを読み取ろうとしたわけだが、フォードはそこにありのままに写るものを指摘した。このありのままの物質/イメージをとらえること、それは時に誰かを傷つける「制御できなさ」として写り込んでしまうものである。母の不倫がスピルバーグ青年にとって疑いようもない真実としてそこに写ってしまったのはそれが無意識化で写り込んだ演出されていない運動であったからだったが、もし意識していない被写体、それはつまり演出という政治的なフィルターが排除された真の運動を主題としてとらえることができたならば、スクリーンに写る「地と図」の対比は排除され全てが動く絵として目を満たす芸術に昇華することになるのではないだろうか。『ウエスト・サイド・ストーリー』で「地と図」の二項対立が入り乱れる形で観客にとって「制御不可能」な状態で提示されるのはその対立自体を脱構築し画面を一つの運動の記録として完成させたらかたらではないだろうか。ここでドゥルーズの名を持ち出しこの議論を続けたい所だが今の筆者にはその教養が足りていないため、将来の筆者に託そうと思う。

結語 『フェイブルマンズ』再考

 最後に『ウエスト・サイド・ストーリー』で究極的進化を遂げたスピルバーグの最新作である『フェイブルマンズ』という映画を我々は観なければならない。そこで告発された──本稿で追って来た──「映画論」や映画の「傷つけやすさ」、「呪い」について、鋭い言及を重ねる鑑賞者は日本公開初日から溢れかえっていたが──『フェイブルマンズ』で語られていることを引用する人は多いが──果たして『フェイブルマンズ』について語った鑑賞者は一体何人いただろうか。言い換えれば『フェイブルマンズ』という映画、その物語の中で語られる「映画論」や映画の「呪い」は『フェイブルマンズ』という映画自体に適応されていただろうか
 答えは否である。『フェイブルマンズ』は映画の「傷つけやすさ」を告発するだけの映画ではない。現在のスピルバーグが、彼はそれをすでに克服していることを観客に見せつける映画である。内容は映画の偽善性を告発するものでありながら、その映画自体は偽善性を持たない運動の数々で構成されている。ラストに登場するジョン・フォードは複合的な否定を与える人物であり、最後に彼は我々に『フェイブルマンズ』という映画それ自体がスティーヴン・スピルバーグという映画監督の実力の披露の場であったこと、彼が映画の「傷つけやすさ」に今は何の戸惑いも見せないこと、映画の承認をめぐる冒険の終焉を告げているのだ。もちろん、彼の天才はキャリアの中で培われていったものであるため、彼のフィルモグラフィを遡る必要が我々にはあった。スピルバーグが手にした運動の美学、それこそが『フェイブルマンズ』で語られた映画的課題を克服するものであったのだ。
 したがって、『フェイブルマンズ』という映画で提示される映画の「傷つけやすさ」の課題とは、『フェイブルマンズ』という映画によって克服されていることを──地平線の位置を「観る」ように──我々観客は観るべきなのだ。

文:毎日が月曜日

注釈

(1)ジャック・ ラカン『精神分析の四基本概念(上)』ジャック゠アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・ 小川豊昭訳、岩波文庫、2020 年、245-247頁。

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