恩師の死に際して

自分には恩師と呼びたい人が何人かいます。

なかでもM先生は、大学時代の論文執筆の指導をしていただいた先生でした。

M先生が亡くなったのはもう随分前のことです。四半世紀以上前になるでしょうか。
入院されていた頃にはかなり認知症も進んでいて、面会にいった「弟子」たちを誰も認識できないような状態でした。
けれども、病床で対面させていただいた際の会話は、あいかわらずのM先生で、こちらのことを誰かとは識別できずとも、仰言ることは変わらぬ知性に彩られていました。

そのM先生が亡くなった時には、にもかかわらず、それほどの喪失感を感じなかったのも事実です。若気の至りといえばそれまでですが、どこかM先生の教えはきちんと自分の中に収めた、みたいな気持ちがあったように思います。おこがましい限りですが。

今年、もうひとりの恩師であるSさんがなくなりました。
恩師ではありますが、「先生」と呼んだことはなく、いつも「さん」で呼んでいたので、ここでもSさんと書きます。

Sさんとは20年から30年くらいの世代差があったのでしょうか。
けれども、Sさんはいつもこちらの意見の正面に立ち、聞き、真っ向から立ち向かってくる、そんな人でした。
僕はいつも、Sさんがつっかかってきそうなことを言い、案の定つっかかってくるSさんの言葉に学んでいました。

30年余りの付き合いでした。
親子に近い歳の差でしたが、何度も言い合いをし、喧嘩をし、同志として同じ目標を目指しました。Sさんの好きな言葉に「せめぎあう」というのがありましたが、まさにせめぎあっていたと思います。

Sさんが亡くなったことの喪失感は大きいものでした。
何を言っても聞いてくれて、そして同意もしてくれれば、反論も返ってくる。
とても自分の中に収められた、などとは感じさせない、Sさんの幅がありました。

今もふと、Sさんにぶつけてみようかな、と思い、ああ、もうSさんは居ないのだ、と気づいて途方に暮れることがあります。

M先生については、自分が身の程知らずだった頃に亡くなったこともあり、「M先生ならばきっとこう言うだろう」などと想像できるところがありましたが、Sさんについてはそれができません。今もなお、Sさんの幅は、僕の度量を遥かに超えています。

時々ドラマなので「亡くなっても、その人はあなたの胸の中で生き続けている」みたいなフレーズを聞くことがありますが、違うと思います。
こちらが何かを言った時に、その言葉を正面から受け止めて、時にはこちらが思いもしなかった返答をしてくれる人は、自分の胸の中ではなく、自分の身体の前に立っているのです。

恩師の中には、今現在亡くなっているのかどうかも分からなくなってしまっている方もいます。まさに、自分の中にしかもう存在していない、という状態です。
でもそれはやっぱり、自分の中の自分の描いた恩師像なのであって、その人自身とは違います。
会ってなんぼ、向かい合ってこその恩師なのだと思います。

だから、生身の身体で面と向かえる時間が大切なのに、なかなかそれを大切に出来ていない自分に、できなくなってから気づいて、そんな自分を卑下してしまう、そういう思いを繰り返す毎日です。


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