『幸色のワンルーム』はほんとうに否定されるべきセカンドレイプなのか。

 映画『万引き家族』を先行上映で見て来ました。ネット上で(まだ公開前でほぼ作品を見れない状況であるにもかかわらず)賛否がかまびすしかったのでどうなのかなあと思っていたのですが、なるほど、これはまあ傑作かと。

 少なくともいままで見たことがある是枝監督の映画のなかではいちばん良い。

 ほんのささいなきっかけから家族を構成するにいたった人間たちそれぞれの愛情、優しさ、だらしなさ、薄汚さが見事に描けていて、非常に感動的。

 いっしょに見に行った友人は「自分の実家そのままで苦しかった」といっていましたけれど、まあ、そう思う人もいるだろうな、と思うくらいリアルな作り込み。

 日本の貧困家庭のひとつの形を見せられたように思いました。ただ、この作品に関して「万引きせざるを得ないほど追いつめられた貧困家庭を描いている」という認識の意見が散見されますが、これは端的に事実ではないと思います。

 いや、そこまでどうしようもなく貧しいようには見えないんですよ。たしかに貧困家庭には違いないのだけれど、一定の収入がある稼ぎ手が4人もいるので、それらをすべて足せばおそらく月の世帯収入は数十万円になるはず。

 まあ、途中から色々な事情でだいぶ経済的に苦しくはなっていくのですけれど、万引きはその前からずっとやっていた様子ですからね。「経済的にどうしようもなかった」というイイワケは通用しないかと。

 そもそも、ほんとうに「お金に困り切ってどうしようもなく」万引きに手を染めたというのなら、大人が自分たちだけでやることでしょう。子供にまでやらせる理由はありません。

 それでは、どうして彼らが万引きをするのかといえば、金に困ったからだらしなく人のものを盗んでいるだけなんですよね。そういうろくでもないダメ人間たちを描いた物語なのです。

 この映画の公開前に是枝監督による政治批判的発言があって賛否を呼びましたが、あの発言は映画の内容をミスリードした一面があると思います。

 ぼくには『万引き家族』が初めに社会批判ありきの映画だとは思えません。

 「自己責任」だの「自業自得」という言葉を使うつもりはありませんが、劇中の「万引き家族」の困窮は何もかも社会や政府の責任とはいえないでしょう。

 あきらかに生活能力が欠けた人たちなのです。そこが良いんですけれどね。

 さて、この映画に関して、一部の人が「万引きをするような貧困家庭を描くことは日本の恥になる」といった発言をして、心ある人たちの失笑を誘いました。

 これについてはぼくはあきらかにばかばかしいと思うのですが、たまたま同時期に『幸色のワンルーム』というマンガがドラマ化することが発表されて、『万引き家族』と合わせて語られています。

 どういうことかというと、『幸色のワンルーム』も『万引き家族』と同じく子供の誘拐を描いた作品なのですね。そして、この『幸色のワンルーム』はその内容が批判を受けている。

 なので、『幸色のワンルーム』を批判するのなら、なぜ『万引き家族』は批判しないのだ、同じような話ではないか、という声が挙がったわけなのです。

 で、ぼくは『幸色のワンルーム』を未読だったので、この機会にと思い、読んでみました。うん、まあまあ。というか、一作のマンガとしてははっきりいってさほど巧みだとは思いませんが、不思議と人の心を掴む何かがある。

 これは簡単にいうと「あるストーカー青年が虐待された少女を誘拐してきていっしょに暮らす」という話です。

 ちなみに、このマンガに対して「ストックホルム症候群に過ぎないものを美化している」という批判があるのですが、ぼくはストックホルム症候群とか、あまり関係ないと思いますよ。

 普通にただの少女向け思春期萌えドリームマンガだと思います。ティーンズ・ラブとか、夢小説とかにありがちな設定。描写がいちいちベタで読んでいて気恥ずかしいのですが、若い女の子にウケているというのはよくわかる。

 しかし、このマンガに対しては強烈な批判があります。なぜなら、このマンガは、あるじっさいの誘拐事件を連想させるところがある、とされているからです。

 というか、その事件から着想を得たのではないか、といわれているのですね。これに関連しては、以下のような意見が的確だと思います。



この作品は大人には退屈だが、ある年齢層の者にしか伝わらない「面白さ」の要素を備えているのではないか。しかし、ただ、しかしである。そう感じる一方でやはり、この作品と「事件」は不可分ではないとは言えない。なぜそう感じるのだろうか。

この作品は「事件をモティーフにしている」と批判されているが、読んでみると「事件と似てない」。青年は少女に性的な暴力を加えるどころか、むしろ大人の暴力から少女を救っている。似ているどころか、事件と「物語」は内容的には全くの別物である。しかし、私も含め、このドラマに反感を抱く大人は事件と無関係だとは考えないだろう。

「この作品は事件とは似ていない」。そうである。この作品は事件に似ているのではなく、事件を揶揄した数多くの人々の無責任な発言に似ている、のである。

「誘拐ではなく同棲(共同生活)だった」こと。「愛し合っていた」のではないかということ。「逃げようと思えば逃げられたはず」であること。「男性は家出少女を保護したが、誘拐犯になってしまった」こと。事件に対して「こうだったらいいな」という人々の夥しい凡百の妄想とこのドラマが見事に一致していることが問題なのだ。

http://rainbowflag.hatenablog.com/entry/2018/06/03/20470


 もちろん、作者による肯定的な発言が存在しない以上、すべては憶測に過ぎませんが、「すべて偶然である」として片づけることはむずかしいこともたしかでしょう。それでは、そのことをどう評価するべきか。

 この記事はこう続きます。



そう考えた時、再び原作を振り返ってみると、少しでも無邪気に面白いと感じてしまった自分に私はぞっとしてしまうのである。もちろん、こうなると「幸色…」だけの問題ではなく、類似する物語の消費行為全てについて我々は反省しなければいけない。

私たちはある事件が起きた時、様々な想像を巡らし、つい言いたいことを言ってしまうものだ。あるいはインスパイアされて何か作品めいたものをひとつ作ってしまうかもしれない。しかし、それは人として一体どこまで許される行為なのだろうか。このドラマを共有することで、我々は責任逃れをする寺内被告と同様の罪を犯してないだろうか。つい面白いと感じてしまった私は彼と同罪ではないだろうか…



 ぼくはここまで来て、はっきりこの記事と意見を異にします。そんなわけはない、と。

 「ある犯罪事件を起こす」ことと、「その犯罪事件の犯人が描いていた(かもしれない)妄想とよく似た内容をフィクションとして楽しむこと」は、当然ながらまったくべつのことです。その区別は明確になされるべきです。

 さもなければ、犯罪者を格好よく描いたフィクションはすべて成立しなくなってしまう。『ルパン三世』は泥棒を美化しているからアウト、となってしまいかねません。そして、この記事はさらに続きます。



「誘拐犯と被害者という関係の中で幸せを求めて生活していくというお話しです。私自身、特殊な環境にある、普通じゃない幸という女の子を演じることが毎日すごく楽しくて、充実した日々を送っています」

では、法廷で読み上げられたという被害者の少女が書いたメモとその内容を比べてみたい。彼女は次のように綴っている。

「家族と過ごしたり、友達と笑い合っていた元のように戻りたい。早く寺内を捕まえて。私の生活を返してよ。早く。早く」

この二人の少女のギャップは何だろう。我々はそれについて想像し、そして震撼すべきである。



 そうでしょうか。ぼくにいわせれば、それは虚構と現実の当然ながらありえるギャップに過ぎず、べつに震撼する必要はないと考えます。

 もちろん、該当事件の被害者の少女に対し「夥しい凡百の妄想」を抱き、それを表に出したすべての人は批判されるべきです。ぼくはそれらをきわめて悪質なセカンドレイプだと思います。

 しかし、それらと『幸色のワンルーム』は「フィクションであるかどうか」という一点が決定的にちがう。

 『幸色のワンルーム』はあくまで架空の物語という体裁で発表されているのであって、そうである以上、「夥しい凡百の妄想」とは異なり、事件被害者を直接に攻撃したり、彼女に妄想を押しつける性質のものではない、と考えます。

 もちろん、たとえフィクションであるとしても、内容的にはっきりと該当事件と重なった箇所が多ければ、それは名誉棄損にあたるといえるでしょう。

 しかし、本文中にも書かれている通り、「この作品は事件とは似ていない」のです。そうであるとすれば、いったいどこが問題なのでしょうか?

 発表タイミング的に「事件を連想させる」ことでしょうか。しかし、それをいいだしたら、ほとんどすべてのミステリやホラーは発表できなくなることでしょう。それらにもどこかしら現実の事件を連想させるところはあるに違いないのですから。

 いや、そういうことではない、という意見もあります。ぼくはネットでこのような意見を見つけました。



作者は「現実の事件とは関係ありません」と言ったけれど、タイミングがあまりにできすぎていた。
ストーリーも横行していた二次加害の内容と被りすぎだった。
あの漫画は
「同意のもとで行われる誘拐もあるかもよ」
「正義の誘拐もあるかもよ」
なんていう、二次加害になりうる思想を、「関係ありませんよ」って雑な予防線を張ってばらまいた作品だった。

…しかもこの作品は、前述した通り中高生の心をうまい具合に掴んでしまったわけ。
二次加害をしたい人間からすればこんなにいい武器はない。
「ほらね、該当する年齢層の子どもたちも賞賛してるじゃん。同意のもとの誘拐って正義なんだよ」って顔できるからね。



 しかし、ぼくは、仮にそういうことがあるとしても、それは「二次加害をしたい人間」が批判されるべきなのであって、作品の責任ではないと思います。作品はあくまでフィクションであり、事件ととてもよく似ているわけですらないのですから。

 現実とフィクションは峻別されるべきです。もうひとつ、こういうことも書かれていますが、



そして2つ目の問題点は、
『類似した手口の未成年誘拐を助長しかねない』
ということ。

「いやいや、あなた二次元と三次元の区別付いてないの?」って思う人もいるでしょう。

でも最初の「思春期は危うい」で説明した通り、中高生は確かにこの作品に「憧れている」。

「幸は助けてもらったんだからお兄さんは悪者じゃない」
「だから普通の誘拐とは違うし誘拐美化にはあたらない」
って言ってる未成年、私は何人も見た。

私がもし、未成年を誘拐したくてたまらない犯罪者予備軍ならこういう子達を狙うだろう。
「助けてあげますよ 善意ですよ」って顔して近づけば、簡単に蹂躙できてしまえそうだから。

犯罪者にしてみればラッキーだ。
この漫画のおかげで、テキトーに善意の大人のフリをすれば警戒心を緩めてくれるかもしれないのだから。

「幸色のワンルーム」は、そういう危険性を孕んでいると思う。



 これに関しては、特に具体的根拠がある話ではないように思えるので、意見は特にありません。それはまわりの大人がちゃんと「現実とフィクションは違う」と教えてあげれば済む話ではないの、というくらいですね。

 また、このような見解もあります。



本人はおきまりのように「この作品はフィクションです」とは語っているが、実際の事件とそれを取り巻くセカンドレイプ的言説から影響がないとは断言していない。

もちろん影響の有無など本人の心の中の話だし、

作者に「私は2016年全くニュースを見ていなかったし、Twitterなどからもそういった言説を見なかった、そんな話があったなんて全く知らなかった」

と言われたらそれを否定する材料はない。

だが、明らかに、あの事件とそれを取り巻く言説がなければ、

この作品は話題にはならなかったと思われる。

というのも、この作品の漫画としてのレベルは決して高くないからだ。

https://anond.hatelabo.jp/20180321152456



 本作がセカンドレイプである理由は極めて単純で、被害者と加害者のあり得ない恋愛関係を勘繰り、被害者が加害者の元に留まったのは被害者の自由意志であるという解釈を流布することで被害者の被害性を毀損するからです。強姦被害者に向かって「抵抗しなかったじゃん」と言うようなものですね。

(中略)

 もう1つあり得そうな反論が、創作なんだからいいじゃないかというものです。創作だからという理由で批判を回避できるはずもないのですが、それは置いておくとしましょう。
 確かに創作の中では犯罪は盛んに取り上げられています。最たる例は殺人です。中には「殺人犯にも相応の理由があった」という筋のものもあるでしょう。ではなぜ、殺人を扱うようなものは批判されず本作が批判されるのでしょうか。
 それはひとえに、周囲の認識に差があるためです。殺人事件に対して多くの人々は、いくら理由があっても許されないという態度をとっています。なので、創作中で「殺人犯にも相応の理由があった」などと言ってもそれはお話の中だけと解釈されます。
 しかし本件のような誘拐事件では、Twitterでみられるように少なくない人々が「被害者にもそういう意思があったのでは」という勘繰りを働かせています。そのような状況下では、創作中の筋ですら偏見の強化、再生産に利用されます。そのため、フィクションであってもその振る舞いには一定の配慮が求められます。

http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/50445222.html



 これらの意見は、作品の内容を問題にしている批判とはちょっと趣きが違います。つまり、作品そのものではなく、作品の受容と消費のされ方が問題なのだ、といっているのだと思うのです。

 いい換えるなら、テキストではなくコンテキストが問題だ、ということですね。このような意見をどう受け止めるべきでしょうか。

 ぼくは「読者の受容のしかたによって作品を批判するべきではない」と考えます。

 つまり、「そのような状況下では、創作中の筋ですら偏見の強化、再生産に利用され」るのだとすれば、それはそのように「偏見の強化、再生産」を行う人を批判するべきなのであって、作品を問題視するべきではない、ということです。

 なぜなら、作品はあくまでフィクション、架空のお話なのですから。

 こういう意見もある。



バカはいる。残念だけどいる。

もちろん、彼らは『幸色のワンルーム』を読んでこんな妄想をしたわけじゃない。

彼らは、彼ら自身の妄想からこんな風に考えただけだ。

そして、現実の事件を見て自分の願望を投影しただけだ。

だが、一人でもそんな妄想をして、それを他人にぶつけてしまうバカが、

『幸色のワンルーム』を読んだらどう思うだろうか。

「やっぱり俺の思った通りだ。この漫画は女にうけてるじゃないか。

 女は家出して、男のところに泊まるのに抵抗がないんだ」

と、「現実とフィクションを混同して」思いはしないだろうか?

そして、そうなりそうなバカがたくさんいることを、私たちは朝霞の事件で目の当たりにしたのだ。

バカは、いるのだ。残念だけど、現実に、厳然としているのだ。

https://anond.hatelabo.jp/20180324001407



 たしかに、その通り。しかし、バカの責任はバカに問うべきでしょう。バカがマンガを読んでバカなことをいいだしたら、その責任はマンガではなくバカにあります。あたりまえのことではないでしょうか?

 作者はバカが自分の作品を読んでバカなことをいいだすことを止められるはずもないのですから。

 そうではない、と考える人はこんなことを考えてください。だれかがあなたのネット上の発言を読んで、何か気の狂ったことをいいだしたとしたら、あなたはその発言の責任を取らなければならないと考えるでしょうか。

 まさかそうではないでしょう。狂った発言の責任は狂った発言をする人間にある、と考えるはずだと思います。

 ぼくもそれが当然だと考えるのです。「バカの文句はバカにいえ。作品にいうな」ということです。『万引き家族』であれ『幸色のワンルーム』であれ、あくまで架空の設定のフィクションです。

 フィクションだからすべての責任を免れるはずはありませんが、しかし、「現実とフィクションを混同した」批判は筋違いだとぼくは考えます。

 また、「現実とフィクションの区別がつかない」バカがいることは作家や作品の責任ではありません。ぼくはそう考えますが、いかがでしょう。

 長い記事になってしまいました。ここで終わります。以上! ご意見どうぞ。

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