「後悔」の中にある、美しさ

「後悔」にフォーカスしてしまうことがよくある。いいことだってあったはずなのに、ネガティブな方ばかりみてしまう、そんな時があるのです。

わたしはやりたいことをやらなかった「後悔」より、やってしまったことを「後悔」する方が多い。かといって、人一倍チャレンジングな人生を送っているとも思わないし、実行力も低い。それなのに、やってしまったことへの「後悔」が多いのはなぜなんだろう。

おそらく、私の中に内在化された規範の勢力が強いからだと思う。これまでの人生、こうあるべき像から逸脱してしまう自分であることを認識して誰かに詫びることで、少しでも規範の中に戻ろう、許されようとしてきた気がする。それをわかりやすく知覚するのが「後悔」という感情なのではないかな。

「後悔」の感情は苦い。だから、できるだけしなくて済むようにしたい。そう考えて行き着くのは、生きている限り「後悔」からは逃れられないから、「後悔」を避けようと思えば、生きていない方がいいのだ。と、ここまで考えて、「後悔」は避けようがないのだなと気がつく。だって、生きていない方がいいという考えにはまったくもって乗れないもの。そうなると、そもそものお題の立て方が間違っていると考えるしかない。

本当の「後悔」というのは、自分を生きた人にしかない感情なのだと思う。そう考えると、「後悔」は苦いけれど愛しいような気もしてくる。ただの単語に、体温が宿るような感じがする。私は規範的には生きていないかもしれないけれど、それなりに誠実に生きているとは思う。

というようなことを、すでに谷川俊太郎が書いていたよ。

アストラゼネカ社のWebサイト内にあったので、おそらく、仕事として書いた詩なんだと思う。私はずっとコピーライターとして、谷川さんみたいな、コピーとして機能する詩が書きたかった(これからも書きたい)。

一倉宏さんのコピーも詩的で美しくて好き。

私はいつもいつも「後悔」しているけれど、「後悔」の中にある、ただ一度しかない人生を生き抜く美しさをとても愛しているよ、というお話でした。おしまい。

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