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問題児だった

電車は1時間に1本しかこない。しかも2両編成。なにより、最寄り駅まで車で20分かかるという場所で、高校生までの時間を過ごしました。

幼稚園はなく、地域の子どもはみんな保育園に通っていました。自分が親になり、我が子の保育園への入園手続きをしたとき、入園の条件として「やむをえず保育に欠ける」という項目があったのですが、私自身は保育に欠ける状況ではなかったので、いったいどんな申請をして入園したのだろう? と、ふと疑問に思ったりしました。おそらくですが、みんな農作業などを理由に申請して、実態はどうあれど暗黙の了解で入園できるということだったのではないかな。入学までの間、集団生活を学ぶ場所はきっとあったほうがいいし、それでなんら問題ないのだと思う。

話がそれました。要は、そんな片田舎で育ってきましたってことです。

保育園時代から、先生から私への評価として一貫しているのは「協調性がない」ということ。小学生のとき、先生が算数の授業で「底辺 × 高さ ÷ 2」と、三角形の面積の公式を説明したのに対して、「その底辺と高さの四角形の半分ってことだね」と口に出したら、なんだか先生が混乱してしまい、授業中、先生と私の会話がしばらく続いたことがありました。ようやく意味が伝わった時、先生は「なんだ、そんなことか。あなたが余計なことを言うから、授業が遅れてしまったじゃないか」と言ったのでした。一事が万事そんな感じで、私は常に場を乱す存在でした(笑)。

小学校1年生、2年生のときの担任の先生は、特に規律にきびしい先生でした。お察しの通り、この先生にはしこたま怒られました(笑)。家庭訪問のタイミングではないのに時々自宅にきて、私の親と先生でなにか話をすることもたびたびありました(笑)。母はこのことがとても辛かったようです。我が子は問題児で、大変なものを抱えてしまったと思っていたのだと思う。まあね、私も親になって思うけど、私みたいな子どもの親は辛いよね(笑)。母がそう思ったのも仕方ないと思う。

先生が帰った後、当然、私は母に怒られる。怒っている内容を要約すると、「どうして私(母)にこんなに恥をかかせるのか」ということだったと思う。そんなこんなで、私は基本的に親に信頼されていない子どもでした。まあ、しょうがないよね。定期的に担任の先生がじきじきに家まで怒りにくるんだもん(笑)。親にとって初めての子ども(長女)で、初めての学校(小学校)からの評価がそれだったのだから。

地元の中学校に入って、私も親も、私の進路になんにも期待してなかったと思う。基本的に問題のある子どもだと、お互いに思ってたから。そして中学3年生のとき、担任の先生が私の家に来たのです。家庭訪問のタイミングではないときに。その時、小学校1年生、2年生の担任の先生が家によく来ていたことを思い出した気がする。

その先生は、私の素行を怒りにきたのではなく、私の母に、「地元の進学校に進学するように言ってあげてください」と言いに来たのでした。「きっと合格します。それが彼女の人生を大きく左右するはずだから、親御さんからちゃんと、進学校を受験するように言ってください」と言いに来たのです。私の人生において、大人に真正面から期待されたり評価されたのは、これがはじめてだったかもしれない。

そんなこんなで、地元のそこそこの進学校を受験して、先生の言う通り合格して、でも高校ではなんの勉強もせず、問題のある生徒であることに変わりなく、だけどとにかく家から出たくて適当に受験して適当な大学に入ったら、なんだか派手な女子大で(入るまでそこがどんな大学か調べてもいなかった(笑))、当然馴染めず、あ、長いなあ、この話(笑)。

ということでいったん終わりますが、また気が向いたら書くかもしれない。

なんでこんなことを書いたかって? facebookって無邪気に、ときどき「どこの学校に行きましたか?」って聞いてこない? そのたびに、「いろんな意味で黒歴史なんだよ、書きたくないんだよ!」って思っていたのですが、もうどうでもいいかなとふと思ったので、聞かれるがままに学校名を書いてみました。そのついでに、思い出したことをまとめてみたのです。

でもさ、中学3年生のときの担任の先生に、私は感謝しなくちゃいけないなと、改めて思いました。私の住んでいたような田舎では、高校でとりあえず進学校に行かなければ、まず、大学に行くことはなかったのです。すなわち、進学校に行っていなければ、家を出たいと思っても叶えることは困難だったはず。そして、いまここで、なんとか働いて生きているのは、この先生がわたしの人生をちょびっと底上げしてくれたことが、とても大きいなと思ったのです。

ではでは、仕事に戻ります!

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