おんちゃん行動展示

kikiに関するいくつかの考察

この文章は「行動展示に関するいくつかの考察」 Advent Calendar 2017の参加記事です。

https://adventar.org/calendars/2667

こんにちは
kikiです。
当初、僕の言語化能力では伝えきれないことが多いと感じたのでしゃるさんに対談記事形式で文章を書いてもらおうかなと考えていました。(なので12月25日はアドベントカレンダーの担当がしゃるさんに変わっていた時もありました。)
が、やはり自分の感覚を説明できるのは自分自身でしかないと
それが満足いくものでなくても表現しきれなくても自分から逃げるべきではないと思い、1から書き直しました。
発案者の僕が遅れてしまい申し訳ありません。

拙い文章ですがお付き合いいただける方は最後までお読みください。
おそらく途中までしか読まないと何も伝わらないと思います。

また、読んだ上でもよく分からないといったことが起こり得ます。
興味を持っていただけたら僕と一度ゆっくりお話しましょう。
その方がありのままを伝えられます。

【行動展示とは何であるか?】
行動展示とは「救い」です。
しかしこれはなにも皆さんが語り尽くしているように「僕がみなさんに新しい視点を与えてるんだ」とかそういうことではありません。
行動展示は僕にとっての救いなのです。
順を追ってお話していきたいと思います。

【行動展示の成り立ち】
まずは、行動展示の成り立ちについてお話をしていきたいと思います。

まずはその前提となるフレーズ、「夢」についてお話したいと思います。

僕は夢を見ます。
この夢には2種類の意味があります。
1つは、寝ている間にみる夢のことです。
もう1つは、僕が意識的に入る夢のことです。

意識的に入る夢、なにを言っているかは僕にもよくわかりませんが感覚として一番近いフレーズが夢なのです。
おそらく「妄想」という言葉に近いのでしょうが、妄想は妄想で存在するので僕の中では「夢」と呼んでいます。
インターネットでしか知らないフレーズですが明晰夢というものに近い印象があります。

僕はどちらの夢の中でも五感を刺激されます。
痛みも感じます。

主に1つ目の夢の中では自分をひどく痛めつける夢を見ることがほとんどです。
印象に残った現実世界での場に自分を置いた上で、考えうる限り最も自分が悲しみ傷つく現実が襲ってきます。

2つ目の夢というやつはかなり便利なもので、謎解き公演を作る際は自分で体験してみます。
微妙に感じる部分があれば、修正案を考えその場で修正し、また体験する。
この繰り返しでできているコンテンツが僕の制作物の中には多いです。
しかし、あくまで自分しか体験できないために、僕とツボの異なる方には不評のものを作ってしまう、それしか作れないという欠点があります。

この2つ目の夢のすごいところはここではなく、「何か面白いものを出して」というアバウトな問いに応えてくれるところなのです。
行動展示もこの生まれ方をしました。
(厳密には何かモヤモヤしたコンテンツのタネのようなものがある程度溜まった感覚がある時に夢に入ると出てくるので、無限に創造できるわけではありません。)
「妄想」と区別している理由はなんとなく察していただけましたでしょうか?

僕はあるときモヤモヤがたまったので夢を見ることにしました。

すると、僕は行動展示の中にいました。

僕は行動展示を後半の構想など全くない状態で1つ目の部屋、2つ目の部屋、3つ目の部屋と体験していきました。
みなさんに公開した形と少しだけ違うのは音の情報が0だったことです。
自分の足音や呼吸音はありましたが、行動展示が発する音が0だったということです。
つまり、GMは存在していませんでした。
ブラックライトもホワイトボードも存在しませんでした。
四方の壁に1つずつ、計4つのボタンが壁に付いていました。
僕が慣れ親しんだKODOKUの手術室によく似ていたような気がします。そのものだった気もします。

そのうち1つが光り始め、別の場所が光っていきます。
なんとなく押そうとして奮闘します。
押すことに成功し空間が溶けて再構成されます(夢なので…)。

そして2つ目の部屋、モニター越しに「4つのボタンが壁に付いている部屋に自分が立っている様子」を眺めています。
僕は瞬時に理解し、ボタンを意地悪に押し始めました。
ここで気持ち悪かったのは僕が悪意を持って押している押し方が、1度目に僕が追いかけていたボタンの順番と同じだったことです(これは僕の脳内で出てきたことなので起こった現象だと思います)。

モニターの中の僕がボタンを押すと空間が溶け、3つ目の空間にたどり着きました。
そこではモニター越しに僕が僕をいじめているのを、モニター越しに僕が見ている状況になっています。

そしてまたボタンが押され、夢が覚めました。

現実世界の時間で言えば5秒も経っていませんでした。

僕が夢の中で体験したのは厳密に言えば3つ目の部屋までです。
しかしそれが意味することは明白でした。

【行動展示の成り立ち②】
ここまでがオリジナルな行動展示です。
ここから僕はとてもとても苦労します。
当時の僕は「夢」を言語化できなかったのです。

これは最近になって分かったことなのですが、僕は思考言語が日本語ではないようなのです。

言語が違うと情報量やその機微に差が出てきます。
こんな言葉があります。
“The Eskimos had fifty-two names for snow because it was important to them.”
「エスキモーは雪をあらわす52の名前をもっていた。それが彼らにとって重要だからだ。」
既存の日本語の区別ではエスキモーの雪に対する感覚は表現できないわけです。

僕の思考言語は言語ベースというより、明晰夢ベースという表現がしっくりきています。

言語ではどうしても単位時間当たりの情報量が少なくなります。
今あなたが感じている五感・周囲の状況の全てを言語化しようとしている間にも世界はゆるやかに鮮やかに急速に変わっていきます。
言語では五感のうち1つを追えればいいところでしょう。

感情をうまく言語化できない時ってありませんか?
追い付かない、機微を表現できない。
それに近い感覚です。

人は論理に囚われます。
僕の数少ない理解者である無策師さんの言葉を借りれば「論理とは人類の共通言語である」。
ほぼほぼ全世界共通といっていいほど、人は論理でコミュニケーションを取るでしょう。

人は言語に囚われます。
ほぼほぼ全世界共通といっていいほど、人は言語でコミュニケーションを取るでしょう。

人は論理的な説明を求めるのです。
人は説明を言語で求めるのです。

しかし日本語にノルウェーから見たとき雪を表す言語が足りていないように、僕の感じている機微を表す言語も足りていないのです。

高次のものから低次のものに落とし込む際には情報量が欠落します。
(情報量が多い少ないという意味で高次低次という言葉を使っていきますが、この思考方法が特別優れているとか言ってるわけではないです。)
写真などで画素数が落ちるとぼやけてきますよね。
「だいたい一緒じゃん」「判別できるよ」と言われるとまぁそうなんですがそうではないと思う感覚です。

長々説明してきましたが端的に言えば、僕は行動展示を言語化できなかったのです。
行動展示だけではありません。
生まれてから満足に表現できたことなど一度もありませんでした。
しかし幸運なことに僕はこの界隈と出会いました。形にする方法を学び、謎がなくても受け入れてくれる界隈で好き勝手しながら段々と自分の思うものに少しでも近いものを作ろうとし、コミュニケーションの難しさを実感し、どうして伝わらないんだと苦悩する日々でした。

そんな僕にとって行動展示は「救い」でした。

僕が12/10に書いていた下書きを以下に掲載します。まだ僕が自分の思考言語という概念に思い至っていない時期に書いたものです。

……

さて、考察をしていく前には2つ目の夢の性質をお話ししなければいけません。
厳密には行動展示のようにモヤモヤが溜まって僕が見せてもらう夢の性質ですね。

1つ、僕はあくまで体験者でしかないということ。
これは当然のようで当然ではないのですが、僕は論理的に考えてコンテンツを作っているわけではありません。
2つ、僕が生み出しているということ。
これも当然のようで当然ではないのですが、僕が面白いと思って生み出している空間であることは間違い無いのです。

この2点に非常に苦しんできました。
多くの人にとって創作が「論理的に考えコンテンツを組み上げていく」のに対して、僕にとって創作は「結果の現象だけが見え、それがどうして面白いのかを考える」という行為なのです。
もちろん論理的に考えるときもありますが、最高値は夢で見えた時の方が面白いです。
(僕が重視しているのは「1人の人間をどこまで動かすか」です。
「何円稼げるか」「何万人にやってもらうことができるか」という評価軸は優先度が非常に低いです。)
この現象によって、零狐春のメンバーなんかには非常に迷惑をかけていたように思います。
けーおんさんなんかは特にそうですね。付き合ってくれて本当にありがたい限りです。

この界隈に入り2年ほどが経過しましたが、夢に入る機会が増加しました。
それに伴い少し進んだ個人的な考察としては、実は論理的に考えているのではないかと思っています。
ただ、思考が折りたたまれすぎていて自分の認知を超えているのかなと
肌で考える。思考が折りたたまれるそういったフレーズに関しても語り始めると長くなりますので割愛しますが、ピンと来ない方には元々認知できない話だと思います。

話が逸れましたが、何が言いたいかというと行動展示に真に込められたものを『僕自身もわかっていない』ということなのです。

そもそもこの案を出したのは1年前ほどになりますが、その時は人に見せても理解されず、僕も今ほど行動展示を考察しきれていなかったのでお蔵入りになった案でした。
しかし、様々なコンテンツを作っていく上で自分の思考が折りたたまれ思考の到達点はどんどんと広がっていきます。
面白く無いコンテンツに触れると「どこが面白いのか」「何がそれを阻害しているのか」「自分ならどう作るか」などと考え込んでしまうのですが、その思考の先に行動展示があることが多く、今一度考察しなおしてみたところ、このポテンシャルはすごいことがわかりました。

をわさんの記事にもあった通りナゾガクでの出展を検討しました。
使える部屋も手術室でぴったりなので零狐春として出そうとしていましたが()
狐ではないからやめてくれと言われました。

その頃はちょうど僕が自分はエンターテイナーでないという悩みを抱えていた頃でした。
少し想像してみてください。
「自分の中から出てくるものが自分の理解を超えている」
これは非常に怖いのです。
しかもこれを発信した時にほぼほぼ理解されません。
自分だけでも理解できていればいいのです。
この世界(この世界は自分が普段感じている大きさの世界という意味です。わからない人は結構。)で誰にも理解されない感覚。
僕は自分の中から溢れ出てくるものを考察・解析し、できるだけ表現し世界に出し、触れてもらい、面白いと言われることで自分の居場所を感じているのです。
「人を楽しませるため」に作っているのではなく、「自分を表現するため」に作っているのです。
これはエンターテイナーではないですクリエイターでもないです。
表現者というフレーズが最もしっくりきています。
しかも恐ろしいことに昔の作品で楽しかったといってくれていた人が、わからなかったと言い始めることが多発しています。
最初は少しだけの角度のズレでも距離が長くなればどんどんと離れていきます。
いつかこの場所でさえいることができなくなってしまうのではないか、そんな恐怖を感じています。

行動展示は形にすること、実現することによって価値が生まれると感じています。
僕にはまだキャラクターもお金も足りません。
ので、アドベントカレンダーを企画しました。

このアドベントカレンダーを通し、行動展示は形を得るのです。
お金をかけてこの空間を作らなくても、考察記事を書くためには自分の脳内で一度体験したり、全体像を想像したりするかと思います。
この時点で24人の人間の脳内には確かに行動展示が形を持って現れます。
また、記事を読んでいるだけの人もです。
一体幾つの行動展示ができるのでしょうか?

また24人は何を書くのでしょうか
この行動展示は極力無駄な部分がありません。
これは体験者に言い訳させない逃げ道を与えない構造なのですがそれは後述するとして
これは考察者にも作用します。
あまり書くところがないのです。
以前の記事を読むことで自分が書く内容はどんどんなくなっていきます。
するとどうなるか、自分のパーソナルな部分を書いてくる人もいるでしょう、例えば自分の過去の話、これは何者にも犯されませんから
例えばそもそもメタ的な話、このアドベントカレンダーはこんな目的でーというような
例えば、読者へ干渉しようとしてみる、「これはなんなんでしょうか?」「ほら後ろを見てください」なんていうような考察者から1つ上がってくるような
……

僕はこの下書きの数日後に思考言語の存在を知覚します。
今書いている文章も以前書いた文章も、今現在僕の中に渦巻いている明晰夢思考が論理的に出していることを日本語に自身で翻訳しようと試みているのです。
しかしぴったりなフレーズは中々ないものですから僕の文章は長くなりがちです。

行動展示が僕にとっての「救い」というのは、これが数多の人間の思考に耐え、人の心を掴み、アドベントカレンダーという形で人の考察をたくさん見ることができるからです。
言うなれば日本語への翻訳作業を皆さんにしてもらったということです。皆さんの文章を見て、「これはなんか違うな」「あーこれはしっくりくる」と感想を持ち、普段自分が使わない言葉や思考の中から近しいものを見つけていくことができます。
また、僕の理解者を探す構造にもなっているんですね。

お陰様で僕はこの思考を知覚し考察し、意識的に使うことができるようになってきました。(まだまだ力不足ではありますが)
そこで思い至ったことを書いていきます。

【僕が行動展示を実現しなかったわけ】
僕は自分で言うのもなんですが行動力があります。やりたい1ネタが思い付けば100人規模のサークルと個人でコラボもしますし、台風が嫌で北海道に行ったりもします。
手持ち豚さんという企画がありましたね。あれは思いついてすぐやりました。
思えばあれも明晰夢思考が出してきたものでした。
Talentsや拡張キット4なんかもそうです。
行動展示を文面で公開したこと、ユナに小説を書いてもらったこと(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884063209/episodes/1177354054884069826)、アドベントカレンダーにすることもそうです。

ここで、僕はふと疑問に思いました。
「僕はなぜ行動展示を実現しなかったのだろうか?」
あの程度のものであれば全く問題なく実現させることが可能でした。

しかし僕は動かなかった。

この感覚は非常に伝わりにくいと思うのですが、僕は今までそれが正解であればどんなに関門があろうと突っ込んできました。ここでようやく行動展示の自分の明晰夢思考の意味がわかってきました。
否、翻訳できました。

行動展示は実現しないことに価値があるものでした。

行動展示はアドベントカレンダーが最適な場所だったのです。

【行動展示が美しい理由】
以下はしゃるさんが書いていた対談文の抜粋です。

……

ここまで読まれている方には、行動展示が何たるかはもう語らなくてよいでしょう。まず「行動展示」には、思考の何箇所かに「人々を選別するためのチェックポイント」が存在していました。
一番わかりやすいのは、第3の部屋を出た時。その時に違和感を感じず「あ、これで終わり?」となった人は、いわゆる”NO”の人。その人の行動展示はそこで終了するのです。しかし、”YES”の人は、「第4の部屋」の存在を思い出す訳です。一体、「第4の部屋」とはどこに存在していたのか?
これについては、今回のアドベントカレンダーで、多くの人が語っていたことでしょう。とても「大衆的」な表現をするのであれば、それは【現実世界そのもの】です。そういう意味で、この「行動展示」とは、以下のような性質を持った事象であると整理できます。

◇まず参加者は『4つ目の部屋から、1つ目の部屋に入っている』。
◇1つ目の部屋では、自分は誰からも見られていない。
◇2つ目の部屋では、自分が誰かを観察できると同時に、自分が見られていたことに気づく。
◇3つ目の部屋では、自分が誰かを観察していたことを観察でき、同時に自分が見られていたことに気づく。
◇4つ目の部屋では、自分は常に「大勢の人から」見られていることに気づく。

───わかりやすい構成ですね。

しかし、本当にこの整理で良かったのでしょうか?ここが「行動展示」が「行動展示」たる所以です。

───というと?

無策師さんとの相談のなかで、実現しない方が良い、という判断もありましたが(無策師のアドベント参照)。
私は、「行動展示」の要素のみを皆さんに伝えました。そして皆さんはそれを「自分の脳内」で、現実を構築し、展示を体験したのです。ここで、大きなチェックポイントが訪れます。それは、『自分の思考の中での”他人”は、あくまで”自分自身”である』ということに気付けるか、どうかです。

───自分の思考の中で動く「他者」は、あくまで「自意識の一部」ということですね。

「自分の思考の範疇からは逃れられない」、と表現してもいいかもしれませんね。このことに気づくと、先程挙げた「行動展示」の構成は、大きくその姿を変えます。これは、「現実世界」ではなく、「皆さんが作り上げた仮想現実」だからこそ現れる姿です。

◆まず参加者は『4つ目の部屋から、1つ目の部屋に入っている』。
◆1つ目の部屋では、自分は自分からも見られていない。
◆2つ目の部屋では、自分が自分を観察できると同時に、自分が自分から見られていたことに気づく。
◆3つ目の部屋では、自分が自分を観察していたことを観察でき、同時に自分が自分から見られていたことに気づく。
◆4つ目の部屋では、自分は常に「自分から」見られていることに気づく。

───なるほど。大衆的な表現をするならば、「行動展示」とは「自分を映し出す鏡」のようですね。

その通りです。「全ての部屋にいるのは、全て自分である」。まず参加者は4つ目の「大勢から見られ、自分も自分を見ている」世界から、「誰からも(自分からも)見られない」優しい世界に放り込まれます。作業をすることで、思考を放棄できるので、現実逃避ができる世界です。

そして、2つ目の部屋で、現実の辛さを混ぜます。自分は、他者の動きを操ることができるという、現実世界ではなかなか体験できない「マウントを取る」ことができます。なので、「自分がマウントを取られていた」ことより、「自分がマウントを取っていた」快感が強くなるのです。
そして、3つ目の部屋で、参加者はそのツケを払います。「現実逃避をしてきた」、「マウントをとって快楽を得た」。この2つの自分の行動を、目の当たりにします。しかしながら、この部屋も現実よりは優しい世界です。なぜならば、この部屋では自分は自分以外の誰からも見られていない、つまり「他者が自分を見ていない」からです。

───そして、「自分が他者から見られる」4つ目の部屋へと歩みを進めるわけですね。

その通りです。あくまで、「行動展示」での登場人物は全て「架空の自分」でしかありません。その姿が如何ようであれ、思考の範疇から逃れられていない以上、それは自分なのです。
こうして、厳しい世界から、優しい世界へと招き入れ、徐々に現実世界の辛いところを体験させていく。
行動展示とは非日常体験なのです。

(中略)

福本伸行先生の「カイジ」の一節を引用すれば、「蛇でいてくれてありがとう・・・・・・!疑ってくれてありがとう・・・・・・!」です。ギャンブルは、相手の心理を読み続け、裏をかくゲームです。しかしながら、相手の立場に立てば立つほど、次第に「自分だったらどうする・・・?」と、自身の心理となる。ギャンブルも自分の本性を映し出すような装置です。
「行動展示」も同じです。これを深く考え、感じ、脳内で体感することで得られる感情、感想、考察、その全てはやはり自分の思考の範疇からは出てこられない。実は、その鏡の機能は、「リアルではなく、脳内で体感する」からこそ上手く働くんです。

───というと?

「行動展示」はですね、逃げられないんです。

───ここでいう「逃げ」とは、どういうことですか?

例えば、皆さん謎解きが好きでしょう。しかし、毎回成功することはないでしょう、失敗もつきものです。その失敗例として、「登場人物の感情を読み取れなかった」とか、「ある人を犠牲にしてしまった」とか、「司会の言葉を覚えてなかった」とか。でも、それぞれの失敗には「言い訳」という逃げ道が残っているんです。

───「そいつの考えてることなんて知らないし」、「自分が助かればよかったし」、「司会ボソボソ喋り過ぎだし」みたいな感じですかね。

3つ目は明らかに司会が悪いですね(笑)。でも、そういうことです。自分の非に、理由をつけて、押し付けることができる。しかし、「行動展示」はそれができない。なぜなら、押し付ける相手は常に「自分」だからです。

───確かに、逃げ場がありませんね。逃げた先にも自分しか居ませんから、結局自分が自分に押し付けて、堂々巡りをする。

それに耐えられないと、人々はどうするか?もうわかりますね。

───あなたに八つ当たりするんですね。

……

行動展示とはこの形で出すことに意味があったのだと思います。
何度も実現しようと思いましたが、なぜかいつもと違い僕の身体は動き始めませんでした。
僕の明晰夢思考がストップをかけていたと気付くと、今までの感覚に説明がつきスッキリとした気持ちです。
このようにやったほうがいいと思い、一般的に言われていることができないという経験は人生でいくつもありました。きっとストップがかかっていたのかもしれません。(怠惰だったこともあるとは思いますが、僕は自分が重視する面においては結構ストイックだと思っています。)

僕の今までの創作活動は僕が感じた「面白い」や「こういう体験したい」を実現することで僕の理解者共感者を探す活動でした。
自分でもまだまだ理解しきれていない思考言語ですが、理解し歩み寄り来年も自己表現・自己探求を続けていきたいと思います。

【最後に】
実はエスキモーに関して述べた言葉には続きがあります。
“The Eskimos had fifty-two names for snow because it was important to them: there ought to be as many for love.”
「エスキモーは雪をあらわす52の名前をもっていた。それが彼らにとって重要だからだ。
愛にも同じ数だけ名前があるべきだ。」

僕はこう思います。

“The Eskimos had fifty-two names for snow because it was important to them: there ought to be as many for everything.”


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