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キャラクターと己の弱さ

東ティモールに来て早いもので三カ月が過ぎ去ろうとしている。海外協力隊ボランティアとしての日々はまさしく光陰矢の如しと形容すべきか。
今回は、私がここで学校の手伝いとして活動して感じてきた東ティモールの人々のキャラクターと、それを通じて感じた自分の弱さを書き留めておく。

人となり

大らか?大雑把?

端的に述べるなら「ユルい」。
たとえば、保護者への成績通達の日の前に「成績ってどうつければいいの?とりあえずテストの採点だけはしたんだけど」と聞けば、「とりあえず点数だけくれれば保護者に伝えておくよ」との返事がくる。
イベントでイスを教室から持ち出したため、イスを元の場所に戻そうとしたときも「気にしなくていい。近くの部屋に入れといていいよ」と言う。こちらが動き過ぎないような気遣いの意図なのだろう。
ほかの先生が遅れて仕事が進まないときも「それじゃこの部分は飛ばしていこう」とスキップしたり、かといってあとで遅れた先生を責めるわけでもなかったりする。大らかに仕事というものを捉えている。

反面その大らかさが全員に共通のものだという認識なので、仕事上の報告連絡相談がまったくない。先の成績通達の日を知らされたのも、イベントの日程を伝えられたのも当日の3日前である。ことにテスト関連の日程は会議に偶然参加しなければ知り得なかったのである(その日私は教材準備のために職員室で作業していただけである。そこにたくさんの先生が入ってきて会議が始まったのだ)。

全体の雰囲気を良くすることには長けていて、突然のイベント日程周知にもかかわらず、当該イベントはなかなか立派なものに見せて終えることができた。ほかの団体に関わっている人に曰く、会議中の発言へのあからさまな反論や口撃は全くないという。進行度はさておき人々が話すことに極端に抵抗を示すような雰囲気ではないようである。

実施3日前に周知されたイベント本番の様子。
華やかに終わり、生徒も保護者も満足げな顔をしていた。

子供のアピール

子供の「誰かに見てもらいたい」という欲求は日頃の授業を見ていても非常に強く感じる。体育の授業では高いレベルの技を無理にやろうとしたり、芸術の授業では絵が描けたと思ったら「できた!上手い?」と席を立って聞きにきたりする。誰かと話しているのを遮ってでもアピールしてくるなどとにかく誰かに自分を見て欲しいという行為に溢れている。
推察するに、大人の目が足りていないことが原因の一つと言える。家庭では何人もの兄弟に囲まれていて一人一人に目をかける時間は必然的に短くなる。家事手伝いは当たり前だが、コミュニケーションというよりもルーティンに組み込まれた作業と化している。学校の先生は指導方法の工夫の余地がなく、教え込み主体で生徒のリアクションを求めないことが多い。何かあれば体罰に頼り、指導として言い聞かせることはあっても、子供の話を聞いて答えを導くということはほとんどない。そんな環境しかないのだから、子供は「誰かが目をかけてくれている」という感覚はなく、マズローの言う社会的欲求に乏しいのではないかと推し量ってしまう。

7年生(写真)は自分の席からアピールする。
5,6年生は近くまで持ってくるので、
机間巡視中に鬼ごっこのような展開が繰り広げられる。

助け合い?馴れ合い?

子供も大人も「助け合う」ことが前提となっている。翻って「自力で成し遂げる」ことに弱い。先の大らかさや大雑把さに繋がるようでもあるが、自分が何かを抜かしても何かしらの形で「フォローが入ってしまう」のだ。
締切に間に合わなくても別の形で間に合わせることにしてしまったり、自分で説明するのが難しければ「あとで○○が教えるよ」とアポイントもとらずに約束してしまったりする。

定期テストでの出来事が印象深い。「問題用紙と解答用紙がある。」「問題文を読んで答えを解答用紙に書く。」といった基本的なことや「説明せよ」「図示せよ」「Lから始まる単語を書け」といった解答形式の指定など、全て問題用紙に書いたのだが、彼らはこれを読む前に「先生ここには絵を描くの?」などと聞いてくるのである。それがテストだろうと授業だろうと、混乱したら生徒はすぐに先生に聞いてしまうのである。
また、試験監督の先生が必要以上に教えてしまうことも私は問題視している。

「先生これなんなの?」
「この問題文は『〜〜の名前を書け』って書かれているだろ?だから〜〜の名前をここに書けばいいんだよ」
「こっちは?」
「『○○の意味を選択肢A〜Dから一つ選べ』って書かれてるから、この欄のA〜Dのどれかにマルつけるんだよ」

こんなやりとりを延々としているし、生徒が作文欄に絵を描いていると「バカだなお前そこには作文を書くんだよ」とわざわざご丁寧に教えてしまう。

日本で学校教育を受け、そして実施してきた身としての感覚だが、児童生徒が出された問題を自力で解決することに対して重さを見出していないように思えてしまった。

自分の弱さ

泥沼の「良くない」

ボランティア活動に従事していると、時に自分の感覚だけになってしまうときがある。言い換えると「日本の感覚から抜け出せない」のだ。ここまで書いていても気付くに難くないのだが、日本(自分の経験)と比べて異なる部分をネガティブな要素として抽出しがちなのである。
独りよがりにその国の一部または全てを「良くない」と決めつけてしまう。この押し付けがましさこそが、今まさに私の自覚している弱さである。「東ティモールのここが良くない」に固執してしまい、揚げ足を取り続ける方向に走ってしまっている。某動画配信者で話題になった「論破」を見るのに近しい感覚だろうか。今の私は過剰な万能感に侵された非常に危険な存在であり、勘違いも甚だしい状態なのである。

彼らは東ティモール国民としての将来を描くのである。
日本のそれとは違うことを忘れてはならない。

固定観念の破壊

我々ボランティアは「技術提供」という形で協力する立場なのだが、自分の持っている知識や技術が全て正しいということはあり得ない。そもそも技術というのは「行使する人」がいて発揮されるのであって、その人に適したものでなければ無用の長物となる。つまるところ時には「日本の感覚」を捨てなければならないのだ。
そもそも私が海外に行くことを志した理由の一つには「自分の固定観念を壊すこと」があった。それを忘れて驕ってしまっていたのだから、恥ずかしい限りだ。

生活上の慣れを徐々に手に入れ始めた今、ボランティア活動に対する考え方を今一度見直す必要がある。これから出会う衝撃に対して「おかしい」とか「狂ってる」と落着させるのをまず辞めなければならない。
「そこに課題と感じる部分はあるのか」
「現地の人はどのように感じているのか」
「自分がこれに溶け込むべきか」
「溶け込まずとも放任した方が上手くいくか」
事実を咀嚼、吟味する。そのための時間をとる。このことがまず第一に自分に課すべきマインドセットだ。
子供たちに言っているように、終わりはないのだから学び続けなければならない。

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