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【絶望三部作】『Evermore』第1章:いざ、イタリア ③(第3部:イタリア旅行記)

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 ローマを去り、花の都「フィレンツェ」へ。

 この街に到着する頃には、空は薄暗くなっていた。宿について、荷物を下ろし、近くのリストランテでラビオリを食べ、宿に戻って、早めに寝た。

 翌朝、ふたりは地元のバスツアーに参加し、フィレンツェに近接している小都市「ピサ」へと向かった。
 無論、あの大理石で造られた ” 斜塔 ” に、会いに行くためだ。

 幼い頃から「ピサの斜塔をこの目で見ることが夢だった」と語るシュンは、296段もの階段を息も切らさず、自前の健脚ですいすいと駆け上っていった。
 あまりにも軽々と天を目指すものだから、彼の背中には羽でもついているのではないかと、本気で思い込んでしまうほどだった。
 一方、俺の身体は、即座に悲鳴を上げた。
 日頃の運動不足のつけがまわったのだ。当然、すぐに息切れし、心拍数もはばかることなく上昇した。おそらく、血圧だって…。
 だが、塔のてっぺんから眺めた赤や黄やオレンジのトスカーナの秋に、中年男の ” 受難 ” はすっかりリセットされた。


 半日のバスツアーを終え、再び、フィレンツェに戻ったふたりは、その翌日、歴史的に有名な彫刻家の名前が冠された小高い丘の上の広場へと向かった。
 そこはフィレンツェの街並みが一望できる場所としても知られている。
 朝焼けの光に満ちたアルノ川に架かるヴェッキオ橋。整然と並ぶレンガ色の屋根は、ひび割れたアフリカの大地のようで、街の中心にそびえ立つ大聖堂と隣合う鐘楼しょうろうの荘厳な鐘の音は、静寂に時を告げていた。

 今もまだ、この街には、正しく ” ルネサンス ” が、息づいている。

 フィレンツェを去る前、ふたりは「サン・マルコ修道院(サン・マルコ美術館)」を訪問した。
 この場所に足を運んだ理由は ” シュンのお気に入りの絵画 ” に、会いに行くためだった。
 その絵というのは、14世紀のイタリアの画家、そして、修道僧でもある「フラ・アンジェリコ」が制作した『受胎告知』のことだった。

 ふたりが出会って間もない頃、「僕、この絵が大好きなんだ」と、彼はよく言っていた。
 今回の旅行で「フィレンツェ」に行くことが決まっても、「サン・マルコ修道院に行きたい」とは、彼は決して口にしなかった。
 シュンは自分のことになると、急に遠慮がちになる性格だった。
 だから、俺が主導権を握って「フラ・アンジェリコ、観に行こうよ」と、言うしかなかった。シュンは一瞬、目を真ん丸にさせていたけれども「憶えててくれたんだ…」と、その後、彼の垂れ目がすぐにやってきた。

 サン・マルコ修道院は、身も蓋もない言い方をしてしまうと、実に ” 質素 ” で ” 地味 ” な、たたずまいだった。
 だが、綿密に手入れが行き届き、季節の花で彩られた中庭や洗練された意匠の回廊、かつてこの僧院の僧たちが修道に励んだであろう薄暗い独房の狭小さに、信仰心の本質が宿っているように思えた。
 シュンは「ここの空気は、懐かしい味がする」と言い、勝手知ったる感じで、目の前をすたすたと猫のように歩いていった。
 その背中を追いかけ、古い階段を上っていくと、その先には、” あの絵 ” があった。

「…、やっと、出会えた…」

 シュンの口からひとりごとのような言葉がぽつりと零れた。

 彼は昔、

「中学の美術の時間、初めてフラ・アンジェリコの『受胎告知』の絵を見た瞬間、目には見えない磁石のような強い力でぐいっと引き寄せられる感覚があったのを今でも覚えている。人は誰しも、人生で必ず出会わなければならない絵画がたったひとつだけあるのだとするならば、僕はきっと ” この絵 ” なのだと、その時、思った…」

 と、言っていたことがあった。

 相変わらず、奇妙な言い回しではあったが、シュンにとってこの絵は、ただの ” お気に入り ” なのではなく、人生をともにする、神聖な抽象であることはたしかなのだろう。

「この絵と出会えたから、もういつ死んでもかまわない。…、僕は、僕の人生のことが、よく分かった」

 彼は言った。キリストの懐胎かいたいを聖母に伝える、天使ガブリエルを一途に見つめながら…。
 平然と希死念慮を口にするその様は、いかなる時もキリストと共に過ごすことを信条としていた修道院の高僧フラ・アンジェリコと、どこか似ている気がした。

「それでも、今はまだ驚くことばかりだ。僕の心の波は荒れている。でも、きっとすぐに受け入れられると思う…」

 と、絵画の向こう岸の世界を見つめながら、シュンは静寂に頷いていた。

*****

「あの絵のこと、有季が憶えていてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
「いや…、俺もシュンの大好きな絵を、一緒に鑑賞できて良かったよ」
「別世界にいるかのようだった…。でも、あの絵はいつも僕の側にいてくれたような気もする…」
「力まず、自然に。そういうことが、この世の真理なのかもしれないな…」
「悔いを残さずに、生きていけそうだよ」

 修道院を出たふたりは、こんなへんてこな会話をしながら、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅までのうらぶれた道を、朗らかな気分で歩いた。

*****

 フィレンツェを去り、次に向かったのは、水の都「ヴェネツィア」だった。
 だいぶ日も暮れていて、島へと続くリベルタ橋から眺めた竹林みたいに並んだ電信柱のシルエットが、やけに切なく揺れていた。

 国鉄駅の改札を抜けると、セイヨウカノコソウっぽい潮の香りがいくつもやってきて、フェリーターミナルの前を颯爽と横切っていった。
 何隻もの「ヴァポレット(水上バス)」が運河を行き交い、西日のオレンジを全身に受けて接岸する様子は、産卵のために遡上するサーモンのように見えた。
 岸辺に打ち付けられる小さな波たちの会話がそっと、潮風に乗って、耳に届く。
 ここには渋谷や新宿のような不自然で人工的な灯りはひとつもない。琥珀色のランプがほんのりほのかに揺れていて、まるでおとぎの国の舞踏会のようだった。

 翌朝、俺とシュンは、エンジン音が野蛮に響き渡る ” ヴァポレット ” に乗って「サン・マルコ広場」へと向かった。
 燦燦と降りそそぐ朝の光に満ちた「大運河(カナル・グランデ)」は、銀河に見えた。
 白亜のリアルト橋はペルセウス、ヴェネツィアに時を告げる鐘の音は、さながらアンドロメダの慟哭だった。
 蜘蛛の巣のように水路で張り巡らされた ” 水の宮殿 ” は、きっと宇宙なのだと、思う。
 シュンも市場メルカートに並んだぎょろっとした目玉の魚たちを指さして「あれは地球侵略をもくろむエイリアンなのだ…」と、無邪気なジョークを意気揚々に披露していた。

 サン・マルコ広場に到着したふたりは、「フローリアン」というイタリア最古のカフェに立ち寄り、朝食代わりの「カフェ・ラッテ」を、優雅なテーブルで味わった。
 この場所を訪れたのは、無論、初めてのことではあったが、そこはかとない懐かしさと安らぎが感じられた。
 そうか、分かった。ここは、きっと「クロノス」なのだ。
 ソファの座り心地の豊かさ、調度品に宿る懐古性。歪んだ時間の感覚。
 何もかも ” あの喫茶店 ” と、そっくりだった。
 シュンは俺を見つめて、幸福そうに微笑んでいた。
 君がどうしても、” このカフェ ” に「有季と行きたい」と固執していた理由が、今、ようやく分かったよ。

 ここは、ふたりが初めて出会った ―。


 午後。潮風香るかすんだ青の下、ふたりはゴンドラに揺られていた。
 黒光りした甲虫かぶとむしみたいなボディに、翼を持つ獅子のエンブレムが銀色に鈍く輝いている。
 思いの外、ぐらぐらとした乗り心地は…、ご愛敬だった。
 ごつごつとした腕でオールをしっかり握ったゴンドリエーレが、クランクだらけの ” ダンジョン ” を、持ち前のテクニックでするりと見事に通り抜けていく。
 巨大なラビリンス内の難所を越える度、シュンは「すごいねぇ、すごいねぇ」と、目を真ん丸にさせてはしゃいでいた。

 大運河カナル・グランデに出た。

 秋空がアドリア海をエメラルドに染めている。シュンのさらさらとした髪が、旅情を誘う潮風になびいている。
 地中海の波の刺激をダイレクトに受け、ゴンドラはいとも容易く翻弄される。
 気まぐれな波の表情に慌てるふたりを、気高いドームのてっぺんに凛と立つマリア様の瞳にはどんな風に映っているのだろうか。
 ゆっくりと流れるヴェネツィアの午後の刹那な舟旅は、思い描いていた風景とはまた違った美しい宝物を見せてくれた。

 ああ、残っていたんだな…。ふたりで体験していないことが、まだこんなにたくさん ―。

*****

 気づけば、このイタリア旅行も、終わりに近づいていた。

 ヴェネツィアを去る前、狭い路地裏にたたずむこじんまりとした土産物屋で、ヴェネツィアン・グラスをお揃いで買った。
 事前に仕入れていたインターネットの情報で「イミテーションも多い」と脅されていたけれども、吟味する時間もなかったし、正直、どれが本物で、どれが偽物なのかも分からなかった。お互いにピンとくるものを購入しようと決めていた。だから、店に入って買って出てくるまで、5分とかからなかったと思う。
 6色のストライプが入った、もしかしたら偽物かもしれない異国情緒あふれるガラス製品が、ふたりがイタリアの旅で買った、唯一の記念品となった。

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