見出し画像

もしバナゲーム 35/100

もし何かしらの病・事故・災害に巻き込まれて、自分が意思決定できない状態になったとしたら。

死んでしまえば、それでジ・エンドだけど、延命治療を行うかどうかみたいなヘビーな選択を、自分以外の誰かに委ねなきゃいけない状態になったとしたら。

自分は何してほしいのか?
何してほしくないのか?
どうありたいのか?
どこで過ごしたいのか?
誰にそばにいてほしいのか?
そして何を最優先したいのか?

大事なことだけど、僕はきちんと考えたことがない。

仮に考えていたとしても、その希望や優先事項を身近な人、つまり決定能力を失った自分に代わって決めなきゃいけなくなる人にちゃんと説明して、理解してもらえているか。そうしてくれるように頼んでいるか。

もちろん、逆の立場になることだってある。

自分の大事な人が望む決定をきちんと下せるだけの準備をしているか。話をしているか。

なーんもしてない。

テンパる自信がありあまる。

----------

医療の世界で「アドバンスドケアプランニング(ACP)」あるいは「人生会議」と呼ばれたりするそんなあれこれを、遊びながら考え、説明し、シェアしあうゲームが販売されている。

もしバナゲーム〜もしものための話し合い

四年ほど前に一度やってみた。

また近々やってみよう。前回の結果はほとんど覚えていないけれど、求めるもの、求めないものは少し変わってるような気がする。

----------

医療技術の進歩は、僕らを長い年月にわたって快適に、健康に、幸せに生きていけるようにしてくれるように思える。

でも実際には、医療技術が進歩するほどに障害を抱えて生きる人は増えていく。救命の確率は格段に上げてくれるのは確かだけれど、救命イコール病気や事故の前と同じ状態に戻ることではない。ちぎれた手足は生えてこないし、機能を失った臓器はマシーンで代替するほかない。

高齢化についても同じことが言える。寿命は延びても、身体は不可逆的に衰えていく。ガタつく部分は増えることはあっても、減ることはない。

昔々は安全で清潔な環境も、栄養価の高い十分な食事も、救命の術もなかった。バリアフルな環境だ。病や事故や災害は、あっさりと人を殺した。障害を抱える余地も暇も与えてくれなかった。

テクノロジーが進歩すればするほど、障害を抱える人は増えていく。

これを「テクノロジーの逆説」というらしい。

また、医療技術がまだまだ貧相だったつい100年ほど前までは、「三途の川の渡航許可」つまりは生き死にの決定は、神様仏様の専権事項だった。

昨今では、この決定は下々の市井の民へとアウトソーシングされるようになった。いわゆるインフォームドコンセントというやつだ。

医師をはじめとする専門家から説明を受けて、あらゆる治療を受けるか受けないかを、本人あるいは家族が決めなきゃいけない。

ある意味、人生ゲームの終了ボタンを、自分か家族が押さなきゃいけない事態に直面する可能性が、誰にでもあるわけだ。

自己決定... 自己責任...

「一体なぜこんな無慈悲なことを!」と神様仏様に文句を垂れることもできなくなる

テクノロジーのおかげで豊かに楽に日々を送ることができるようにはなったけれど、人生の最終局面においては「神様仏様頼み」という(ある意味イージーな)選択は許されなくなった。

せちがらい時代になったとも言える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?