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火をおこすには火打石が二つ必要だ It takes two flints to make a fire.

  今どき関東から九州に行くのにコスパがいいのはLCC格安航空で行くのがベストだ。特に南端の鹿児島へ行くには時間・料金とも最速・低料金になる。ましてや弾丸ツアーの場合はなおさらだ。

 日本に生まれて以来一度も九州の地を踏んだことのない同士の弥次喜多二人旅として鹿児島を目指した。二人は九州に行ったことはないが何故か沖縄には行っており、ほかに海外旅行にもいったが空白地帯として九州が残っていたのだ。そんなことをいうのは単なる言い訳に過ぎない。東京都に住んでいても、一度も行ったことがないところは無数にあり、よほどその気にならないと踏破はできないからだ。

 そんなわれわれが目指したのは鹿児島である。東北出身の弥二さんの方が鹿児島を舞台にした「六月燈の三姉妹」という映画をみて鹿児島弁の精妙なイントネーションと今まで聞いたことがないような言葉を話していて好奇心が湧いたせいで喜多さんを誘ったのである。映画の中で店の主人が居間に飾ってあった「敬天愛人」の扁額を家人が粗末にしようとしたとき「西郷どんの書をなにするんだ」といって扁額を元に戻すのを見たとき、西郷が鹿児島の人々に深く愛されている様子が見てとれたことも気になった。この映画はほぼ鹿児島の宣伝映画だから、鹿児島の要素を要所にたっぷり描いているので当然かもしれない。鹿児島市内出身ではないが知り合いの鹿児島人はほとんど歴史や文化を知らないと言っていたから、一般人の中には地元のことにあまり関心・興味がない人もいるようだ。

 前日に霧島温泉郷に一泊して朝早く鹿児島市内に向かった。喜多さんは大学受験で世界史と日本史を勉強したとかで、幕末が好きだったそうだ。歴史を二科目も履修したのは東大でも受けるつもりだったのかもしれないが、東大出身であるとは寡聞にして聞いたことがない。その喜多さんは鹿児島一番の景勝地といえば城山に登って市内全景と桜島の噴煙を観ることだといったので、わかりにくい狭いくねくね曲がりの坂道を登った。天気に恵まれたので鹿児島市内と桜島の素晴らしい眺望を堪能した。

照国神社正面

 あとは矢継ぎ早に、城山の崖下にある島津斉彬を祀った照國神社、西郷隆盛銅像とその近くにあった小松帯刀像を写真にとり、南洲墓地・神社に向かった。南洲墓地は西南戦争で戦死した人たちが埋葬されているところで、のちに墓地隣に南洲神社が創建されているところである。一応お墓参りをして、神社に詣で、最後に西郷南洲を顕彰する記念館もみてから、昼食に名産のうな重を食べた。

軍服姿の西郷隆盛
小松帯刀像
中央に西郷隆盛墓、左右に桐野利秋、篠原国幹、村田新八の墓
南洲神社
加治屋町の維新ふるさと館

午後の夕方前には鹿児島を離れる予定だったので、最後に甲突川河岸に面する加治屋町にある鹿児島維新ふるさと館を訪ねることにした。この博物館は薩摩出身で明治維新に活躍した人々が日本近代に貢献した事績をさまざまな様式で展示している。それらの展示を見ながら気がついたことがあった。薩摩藩出身で幕末から明治維新にかけて活躍した人たちの生まれ育った町が加治屋町に集中している事実に驚いたのである。教科書に載っているこの時代の人物の多くが加治屋町で幼年時代から青年時代を過ごしているのである。明治も末期までには学制も整い学校教育が本格化すると、学校教育を受けた世代は加治屋町出自の薩摩出身者でも前の時代に比べると教科書に載るような人物はほとんどいなくなる。明治維新をけん引した人物や日清・日露戦争時代までに活躍した軍事や政界の人物は学制が始まる前に青年期を加治屋町で過ごしている。鹿児島城下の加治屋町という一町内で、教科書に載るような人物が多く輩出するのは異常である。ひとつの小さな町の中に優秀な人材がたまたまたくさんいたからという説明は説明になってない。

 これだけ狭い範囲の町から優れた人物を多く輩出している町の例は聞いたことがない。博物館を見学した後から加治屋町にある有名人の記念碑をみてまわったが、今のところ10基あった。西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、吉井友実、村田新八、篠原国幹、山本権兵衛、黒木為禎、井上良馨などである。しかしながらここに挙げた全員が加治屋町で生まれ、育ったとは限らないようだ。村田新八、篠原国幹、井上良馨は加治屋町に記念碑があるが、他の史料によると、村田新八は薬師町(今の鶴丸高校付近?)、篠原国幹は平之町(城山東山麓付近)、大久保利通、井上良馨は高麗町(加治屋町の甲突川対岸の町)で生まれたと書かれている。観光地図では村田新八の加治屋町との関りは、生誕地ではなく居宅地となっているし、伊地知正治も加治屋町が誕生地とあるが、他の史料では下千石馬場町とあり、どの程度信頼性があるか判然としない。 

加治屋町の町域

このように正確に誕生と生い立ちが加治屋町かどうかわからない事例がたくさんあるが、この町の特異性を語るにあたって、それが大きな障害になるとはおもわれない。まず最初に幕末から明治中期日露戦争くらいまでの時期に知られた人物で加治屋町と表記されている出身者は何人いるだろうか。何人いるかググった限り書き出してみよう。(1マスしか開けてないのは親・兄弟を示し、2マス空けているのは本人のみを示している。名字が違う例は養子にいっているからである)

 西郷隆盛 西郷従道 西郷吉二郎 西郷小兵衛  吉井友実  有馬新七  
 大久保利通 大久保利和 牧野伸顕 大久保利武  黒木為禎  村田経芳
 東郷平八郎 東郷四郎兵衛 小倉壮九郎 東郷実武 山本権兵衛 大山巌
 大山成美 大山誠之助  大山綱良  田代安定  吉田清英 岩下方平
 樺山資紀 橋口兼三 橋口伝蔵  鮫島尚信  鮫島武之助 鮫島盛など
       
 以上30名いる。この約半数の人物は幕末の動乱や戊辰戦争、西南戦争で亡くなっているから、生きていたら政界や軍事部門で大きな業績を残したかもしれない。もちろん、加治屋町以外の町出身者がいないというわけではない。ついで多い町は高麗町で約15人いる。
  
  種田政明  弟子丸龍助  野津鎮雄 野津道貫  河野主一郎  
  淵辺群平  高島鞆之助  井上良馨  益満休之助  奈良原繁
  奈良原喜左衛門  海江田信義(有村俊斎) 有村雄介 有村次左衛門
  有村国彦など

 ほかの町や農村部出身者で名の知れた人物を輩出しているところもあるが、いても2~3人以下である。

 学生時代、幕末・明治の時代に薩摩藩や長州藩出身の人々がたくさん輩出したのは、藩閥政治の弊害のせいで薩長出身者が大量に政治家や軍人として重用されたからだと考えていた。今回、加治屋町を訪れてびっくりしたのは町の狭さだ。区画として東西250mくらいの小さい町中で、ググったらヒットする人物が30人もいるのに違和感を感じたのである。もちろん、明治維新の原動力になり、維新後も政治の実権を握ったのが薩摩藩や長州藩の出身者だったから、維新後も主導権を握るのは当然だろうし、縁故を頼りに猟官運動で出仕・出世したものばかりだと思っていた。確かにそれもあっただろう。そればかりではないと、このたびの鹿児島に行くことで納得できた。長州の場合は加治屋町のような狭い町からではなく、松下村塾という私塾から有為の人物が輩出しているのと比べると異彩を放っている。

 鹿児島維新ふるさと館を見物し、加治屋町に設置された顕彰碑を見てまわって感じたことは、どうしてこの狭い町でこれだけの人物を輩出したのか理解できずに モヤモヤしたまま鹿児島から出発しなければならなかったことである。旅行から帰ったあとも、頭の片隅にあって時間があれば調べてみようかなというモチベーションになっていた。暇なときに歴史の本を読んで、これかなと到達したのが郷中教育だった。

加治屋町内の西郷隆盛・従道誕生地

 旅行中に撮った写真のなかで、加治屋町の西郷隆盛誕生地記念碑のそばに小さなプレートがあり、そこに「郷中教育とは同一地域内に住む武家の青少年たちが、勇気と根性を養い、日常のしつけ、武芸の鍛錬をする、薩摩藩独特の自治の教育制度」と書いてあったのを撮影していたにもかかわらず、見過ごしていたので旅行中は郷中教育が頭になかった。そんなわけでモヤモヤしたのかもしれない。しかしこの郷中教育の解説は一般的であり、全国を探せば似たような制度はありそうな気がした。弥二さんは喜多さんにこの疑問をぶつけてみたが、お互いに見ていたのに見えてなかったせいか実りある疑問追及はできなかった。郷中教育の中には薩摩でしかやっていない何かがあるかもしれないということで、いったん結論を出し、後日できるほうが何であるかを探すとして鹿児島を出立した。 

加治屋町の大山巌記念碑
加治屋町、鹿児島中央高校内にある記念碑

旅行記風の第一部は終わりです。第二部は郷中教育についての随筆です。
長文になってしまったので、二部に分けました。


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