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僕的日乗

 風が強かった。だから、どこでもいいから早く風を凌げるとこへ入りたかった。風がなくても寒い夜だった。

 思い起こせば駅前の個人商店の本屋が、アメリカ資本の会社に潰されたのが現在のような状況の悪化に繋がったのと考えるのが自然だと思える。もう不要になってしまったスタンプカードを僕は捨てないでいる。今となっては栞代りに使うほかに実際的な用法を思いつかない紙切れだけが、2022年9月の僕の記憶を呼び起こす考証資料。アパートの構造的に心許なく、響けば響くほど不安になる足音、太平洋で鳴り続く重低音。以上略言。

 とにかく近所に本屋がなくなってから、本を買いに行くのが億劫になった。本を買うために相当なエネルギーを消費しなければならない訳で、となると外出に係る精神的負担が日常のゆとりを迫害する。大袈裟に言うのはよそう。でもこれは日記だから気楽に書こうよ、誰にも需要ないわけだから。
 着る服は決まっているし、履く靴も決まっている。そのため不確定なのは近頃現実味を帯びだしてきた現在地に対する執着心であり、自らの体臭が染みついたベッドに対する帰巣本能からの脱却もしくは克服。克己心は前日にゆうちょ銀行から引出した一万円によって基本的には解決する。残高を見てはいけない、誰も寝てはいけない。トゥーランドット、トゥーランドット。航海安全と大漁祈願の歌みたいな調子で発音する、トゥーランドット。すぐ本筋を見失う、みうらじゅん。
 なんとか部屋を出る。そのときに想像するのは粘液的なものから意志をもって離れる質量のある球。傍目からは重力に起因する極自然な物理現象なのだが...。その臭い球、粘液の中の方が安全なのは自明である。そのまま部屋にいれば全日本絶対安全少年。少年という歳ではないことを氷面鏡が教える、解像度は荒いが僕の想像力で十分に補える、補填するモルタル。乾燥は素晴らしいが冬の内は嫌われる。粘液を切り離して(それは多少の未練が残るように完全には拭い去れない。現実にしかシャワーはないし、水を贔屓するのは性に合わない)、金属製の扉を閉めて錠をかける。さっきから咥えていた煙草に火をつける。思索に耽っている通行人に変身して、歩き煙草の罪悪感を看過、排水溝の形をした完了動詞に向かって歩く。
 最寄駅に着けば、どこまでも行ける気がする。正確に書けば、電車の席に座れたらそんな感情になる。どこか遠くに行きたい。交通系ICカードが発明されてから僕もその恩恵を受けているわけだけれど、自動券売機で数百円分の切符を買えば目的地は殆どその時点においては決定されている、しかし入場時にカードを翳してホームに降りた僕には流動的な目的地が脳裡にあるだけ、浮遊してるだけ、本当に遊んでる感じ。様々な地名の漢字が前時代的なスクリーンセーバーみたいに動く。車窓からの景色を眺めて当初の目的を思い出す。「本を買うのだ」それならば「神保町」一択。と、言う訳でついつい神保町まで行ってしまうことが...まぁそれなりにはある。

 しかし、今回はそのような経緯を経て神保町に来たわけではなかった。寝台列車に揺られる感覚で上野の「ギャラン」にいて、意識朦朧としてタクシーキャブに乗って、全部の広告が雲散霧消するころに、また別種の広告に囲まれて青山に立っていた。高田渡の「ゼニがなけりゃ」を口遊む。吟遊詩人が死んで僕が語る。「住むなら青山に決まってるさ、ゼニがあればね」
 薄暗い喫茶店まで送ってもらったので太宰治調に「待ちの多い人生です」と呟く。珈琲一杯1000円、人間らしくない首の長さで愛想のない店員にカウンター席を指される。安部公房の戯曲「未必の故意」をひらいて、周りの客の声に耳を欹てる。「韓国では―――カナダは性加害者に―――昨日はありがとうございました。―――っていう店にあった服が、お会計はこちらです、トイレ空いたよ案内して差し上げて、ブレンドとブルマン、めっかちとちんばは棒を持ってチャンバラをしている。」後半は戯曲を読んでいた。40分が限界だった。
 青山の街、眼鏡を外して歩けば大した街ではない。狭い路地の両側の照明がやけに明るい、街ゆく人はデパート一階の匂いがする。足に溜まった尿意をどこかへ放たねばいけなかったのだが、青山のコンビニはどこもトイレを貸し出してないことに絶望して、メトロまで走った。

 「それから」17時くらいに青山を出て、神保町に着いたのは17:40。大体の古書店が18時閉店なので、すずらん通りを疾走。本棚に並ぶ背表紙を疾走(走ってばかりの日だ)。「もう閉店になりますので…」という店主の声を背中で聞いて、レヴィストロースの「悲しき熱帯」上下巻に手を掛ける。振り返って目で「いいですか」って聞けば「どうぞ」という明朗な発話。2500円。日焼にシミ、保存状態がいいとは言えない。

 で、冒頭に戻るわけですね。「風が強かった」三月はライオンのように…くだらない常套句。もうどこでもよかったので「もうどこでもいい」と言った。入ったことのないアジアンフュージョン店にはいる。閑散として誰もいないせいかダイレクトに甘い匂いが鼻腔口腔を刺し、多少の不快感を覚えたものの足を前に進めた、後には戻れなかった。
 僕は根っからの嘘つきなので帰りたい店では無意識に最奥の席に座る。居酒屋の居抜きっぽい間取の配置、広いテーブルは記憶に残らない暖色系、謎にスターウォーズ推、メニュー表にはアジア系の料理のほかに「当店で串打ちしてます」と横に書かれた焼き鳥数種。僕は迷うことなく「ガパオライス」を頼む。
 店の沽券にかかわると思うので、先に言っておくが料理は不味くなかった。寧ろ美味しいと言ってもいいくらい、人には薦めないけれど。
 注文を一通り終えて店内を見回す。中途半端な店、中途半端な自分が段々と店に馴染んでくる、輪郭がぼやけて空間に流れ出す、人格、喉にいる「僕」ではない一人称単数形。なにか声にしないと分裂していまう。僕でなくてもいいような、誰かでも言えるような日本語を発話する、相手が応える。一通りの会話、通信障害が生じていないことを確認するための会話。母語話者なのに学習者向けの例文みたいに平面的でくだらない。ならば僕は他の複数の言語でその会話を再現できるのか、そりゃあ無理だ。3カ国語が限界。対談だったものから発言を控えて無言の「俺」を交えた鼎談に変容している。多分僕の前に座った彼女も誰かをこの席に「同伴」させている筈。僕は彼と会話する、そして僕の「同伴者」としての「俺」の背中を見る、僕自身としての「僕」にも会話を振る。もちろん目の前の彼女にも声をかける。暫時的な存在だったが、現在は手の付けられないくらい巨大化もしくは肥大化した2022年9月の「僕」またはよく似ているだけの2023年10月末の「俺」よくこういう場に現れてくる。平日の昼まで寝てた木偶ノ棒が実践的なフェミニスト面で女に飯を奢らせている!!思想があれば加虐的に脛毛を剃ってもいいのですか、もしくは陰毛をキャンディーで。性器を舐めるときは一体どのようにすれば社会参画的? 内在的なミソジニーを隠蔽するが「女は女である」関係ない。目の前にある関係性だけに注視しろ。構造をどこまで、払拭しろダスターで払拭。関係性だけが問題だ。しかしそれも構造分解、構成物を陳列する獺祭みたいだが魚は腐敗が避けられない、ままならない因果。関係性?どこまでが留意すべき関係性? 重要性、有用性に順位や階層をつけたくないな。全部白濁したプールに浮かんでいるだけ、母乳で白く濁った水槽に三次元的に散在している…ひとりの母親というより、授乳期の女が数百人どこかにひっそりと隠れている。その証拠として時間経過と共に白濁色が濃くなっている…不安。僕の所為で栄養失調になった子供達の声が海鳴りのように聴こえる気がする。
 テーブルにガパオライス。「あ、食べるわ」辛いけど美味い。でもすぐ飽きる味。味覚には自身がないから詳細は避ける。忌避してばかりだ。女に依存しているくせに。パクチーが添えられている、噛めばかむほどカメムシの匂い。「私は仕事が辛い時ほど、パクチーを食べる。新卒で入社して三年。大学は都内の中堅私立大学。仙台の実家は嫌いだから上京してからというもの、おばあちゃんのお葬式のときにしか帰ってない。おじいちゃんのときには帰らなかった。いまでも偶に叱責する母親の声が耳鳴りに紛れている気がする。仙台駅遠く、処女を喪失した国道沿いのラブホテル、シャワールームの網戸にとまっていたカメムシを見留めた17歳。彼女は嗜虐的な衝動に襲われて、素手で潰して匂いを嗅いだ。外骨格が押しつぶされ虫の体内から出てきた色々な柔らかいものをシャワーで洗い流した。私はあの頃の「私」を知らない。忘却の川は観光地でしかありません。せっかくですが、私は案内など出来ません。私は東京に在る。だからパクチーを食べれる。カメムシなんて知らないから。だから私は都会人としてパクチーを食べる。カメムシの匂いだなんて思わない。奥歯で磨り潰し、鼻腔に空気を溜。存分に味わうパクチー…」みたいなね、みたいな仕事帰りのOLがいたらいいね。
 同伴者が僕の前でまだ食べ物を咀嚼している。髪、顔(目、鼻、動く口。「辛い」と言って鼻を啜る、その表情筋)、胸、獏とした記憶の再現の下半身。スプーンの先の動きから、指、掌、二の腕、肩、見えない背中。「あー鬱なのに、体は生きようとしている。僕から見えない裏側も全部。代謝を続けている。矛盾していて愛おしい人間だな。」休むことなく続いている筋収縮の連続に淫猥なイメージが重複する。
 ずっと見てもいられないので、僕は僕の「内なる辺境」への旅に出かける。旅というような呑気な感じではない。寧ろ亡命。で、なければ僕の精神が分裂していく。複数の女の裸に向かって、正確な地理的な位置に向かって体も分裂していく。等高線に沿って僕のO型の血液が広葉樹ばかりの植生の里山を囲う。こんなことなら吉祥寺駅前の献血にでもいった方が誰かの役に立ったのに…。全部この中途半端なアジアンフュージョン店の所為だわ、直接的にはこの店に責任がある。いや、やめよう。責任の所在を明らかにするなんて法治国家的、いや広く制度的だから。

 「私、ずるいんです」東京物語の原節子風に声に出してみる。サンプラーに入れてキーボードを叩く。「私、ずるいんです」と、いうか「僕、ずるいんです」。イデア的な乳房に延々と麻縄で(ステレオタイプ過ぎる)ぶらさがっている漸進的自殺。「好意に甘えているんです。僕は全然、いい人なんかじゃないんです。」『知ってるよ』ほら声を合わせて歌うように怒ってよウィーン青年合唱団。音楽の授業で一番成績のいい子ひとりに歌わせてくれてもいいよ。音楽の先生を停職に追いやってよブルージーンズの知恵遅。福井県の実家に帰って、子供産んだらしいぜ少年。僕はまた今日も、小銭を数えます。小銭を数えるように人の好意を数えます。「これだけあれば、長崎までの切符が買えますか?」「あれが最終列車ですから、ほら走って!」
 僕は「第二の性」を片手間にしか読んでいないから、女を女にするのはペニスではないことしか知らない。僕が愛している女、石鹸の匂い。清潔なシーツ。明日はないとしても姑息な手段で乗り切る口頭試問。「私に向けて書いてないでしょ、この手紙」突き返され、理由を尋ねる。子供みたいだ。質問をすれば解答が得られるという稚拙な幻想を今なお抱き続けるグラウンドの砂。「だって私以外の誰に読ませてもいいと思って書いてる文章だから。私の為に書いてよ。私私私。私はドロシーに立候補できるような娘じゃなかったから、だから案山子だったのさ。私だって踵を3回鳴らして帰れる靴が欲しかった。今だって欲しい。今の方が尚更必要かも。だって自分が帰るべき場所がわからないから。」
 ずっと平面で直線で、現実味があまりない。裸。カフェインが足りない。死んで棺桶に入ったら唯物論者を辞める予定。予定はあくまで予定だから。裸。

 まぁ、結局のところは桶屋が儲かるって感じ。「意味わかんない」よね、僕もそうだから。安心材料にはならないけど、不安を感じていないように振舞って。それが生活。多分平均的で怠惰な生活。

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