[スター・ウォーズ]レイ三部作の「守破離」の前提

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スター・ウォーズのレイ三部作(シークエル・トリロジー)を解釈するシリーズの5つ目の記事である。

今までの記事で、以下のことを述べた。

正しいことが分からず、未来を見通すこともできないならば、何が正しいか考える時間が十分にないならば、我々はいったい何をすればよいのか。先人たちをどう継げばよいのか。これが、レイ三部作の抱える問題意識である。
これに対するレイ三部作の答えは、今自分にできる最大限のことをすること、そしてそれが必ずしも正しくないことを自覚すること、問題が起きたときには反省し次の行動に生かすことである。
さらに、師の教えを守り、破り、離れるという「守破離」という過程を通して、先人たちを継ぐことである。

ここでは、正しいことが分からないこと、未来を見通すことができないこと、何が正しいか考える十分な時間がないこと、これらが映画内でどのように表現されているか見ていく。また、守破離という方法が映画内でどのように正当化されているか見ていく。

1 できることをするしかない状況

まずは、絶対に正しいことがないこと、何が正しいのか分からないことが、映画内でどのように表現されているか見ていく。

なお、以下挙げるものは、正しいことが分からない具体的な事例というよりは、正しいことが分からないことを象徴的に表している例と言った方が適切だろう。具体的な事例は後半で見ていく。

1.1回想シーン

『最後のジェダイ』では、ベン・ソロがルークのもとを去るシーンの回想が3回ある。回想シーンが入るのはスカイウォーカー・サーガで初めてである。

注目したいのは、これが過去にあった出来事の客観的な映像ではないことである。
一つ目の回想で、ベンがルークを殺そうとしたことが判明する。
二つ目はベン・ソロ(カイロ・レン)から見た回想である。これにより、一回目の回想が客観的な事実ではないことが明らかになる。
三つ目はルークから見た回想である。これにより出来事の全貌が分かる。ただし、これは二つ目の回想がカイロ・レンのうそだと示すわけではない。カイロ・レンから見れば二つ目の回想は真実である。

これらの回想シーンで表現されているのは、自分が正しいと思い込んでいることが本当にそうかは分からない、ということである。
客観的な出来事も、見る人や切り取り方により印象がまったく異なる。自分にとって正しいことが、他の人にとっても正しいとは限らない。

人は自分のいる「いま・ここ」から離れてものを見ることはできない。完全に公平で客観的な立場にはたどり着けない。絶対に正しいことが何か、我々には分からない。これを、レイ三部作を解釈する上での前提においた。これらの回想シーンはこの前提と相性がよい。


※ここで『ジェダイの帰還』でのオビ=ワン・ケノービのセリフを思い出した人がいるかもしれない。

Luke, you’re going to find that many of the truths we cling to depend greatly on our own point of view.
我々が考える真実のほとんどは自分の見方で変化する。

なお、見方により変化するのが「真実のほとんどmany of the truths」ではなく「我々が固執する真実のほとんどmany of the truths we cling to」だと言っていることに注意する必要がある。

1.2ハン・ソロの幻

ルーク三部作とアナキン三部作では、誰かに見えている映像(主観的な映像)はあまり使われていない。ほとんどは物語内の客観的な映像である。

これに対してレイ三部作では、主観と客観が入り交じった映像が比較的多く使われている。

分かりやすい例として『スカイウォーカーの夜明け』でのハン・ソロの幻を挙げる。これがフォース・ゴーストではなくベン・ソロの記憶であることは劇中で説明されている。
フォース・ゴーストならば、ある意味で客観的に存在している。しかし、ハン・ソロの幻はベンの記憶が作り出したものであり、客観的にはそこには存在しない。よって、このシーンはベンの主観的な映像である。しかし、まるでハン・ソロが実際にそこにいるかのように描かれる。

1.2キジーミの戦闘

また、興味深いのはレイとカイロ・レンのフォースによる交信である。ここでは『スカイウォーカーの夜明け』のキジーミでの二人の戦いを例に取る。

キジーミ上空のスター・デストロイヤーにいるレイと地上にいるカイロ・レンがフォースによって繋がり、二人はライトセーバーで戦う。
地上にいるはずのカイロ・レンがスター・デストロイヤーのカイロ・レンの部屋にいる映像が流れる。また、カイロ・レンの部屋にいるはずのレイが地上にいる映像が流れる。離れた所にいる二人のライトセーバーがぶつかる。さらに、カイロ・レンの部屋にあったダース・ベイダーのマスクが地上に転がってくる。

このシーンは二人に見えている映像だろう(カイロ・レンにはレイの周りの風景が見えないから、正確にはレイに見えている映像か)。しかし一方で、ダース・ベイダーのマスクは確かに(物理的に)転送されている。
このシーンでは客観と主観が入り交じっている。

『最後のジェダイ』でも、スター・デストロイヤーにいるカイロ・レンが、雨宿りをしているレイとフォースで繋がり、雨に濡れるシーンがある。また、オク=トーの小屋では、レイとそこにはいないはずのカイロ・レンの手が触れる。

『スカイウォーカーの夜明け』でも、キジーミ以外にも同様のシーンがある。パサーナでレイが身につけていた首飾りを、別の場所にいるカイロ・レンがひったくるシーンなどである。

絶対に正しいことがないことは、客観的とされているものにも及ぶ。見る人に依らない、絶対的なものなどないのではないか。少なくとも我々には完全に客観的なものは分からないのではないか。レイ三部作では客観を絶対視していないから、以上のような主観と客観を分けることができないシーンが可能となる。

なお、正しいことが分からないことは、あとで取り上げる『最後のジェダイ』でのポーの作戦などで具体的に描かれている。

1.3作戦が立てられない

未来を見通すことができないことは、劇中で、作戦が計画通りに行かないというかたちで表現されている。

未来を予測することができないから、作戦を立てることができない。また、作戦を立てたとしてもうまくいかない。

なお、作戦を立てることができないことに対しては、以下の二つの解釈があり得る。一つは「作戦を立てる能力がない」という解釈である。もう一つは「作戦を立てられる状況にない」という解釈である。

以下、具体的な例を見ていく。

1.4ポーたちの作戦の失敗

『最後のジェダイ』ではポーとフィン、ローズらによる秘密作戦が描かれる。

まずはフィンとローズの作戦を見ていく。彼らの目的は敵戦艦にある追跡装置をオフにすることである。
そのために、まずはカントバイトに行き、マスター・コードブレイカーを連れてくる必要がある。

フィンたちの作戦は計画通りに進まない。まず、マスター・コードブレイカーを連れてくることができない。DJという代わりの人物を頼ることになるが、彼は裏切り、レジスタンスの情報をファースト・オーダーに売る。また、フィンたちは追跡装置をオフにすることはできず、ファースト・オーダーに捕まる。

ポーの作戦は、レジスタンスの指揮権を奪い、フィンたちが追跡装置をオフにしたときにハイパースペースに逃げることである。
この作戦もまた失敗する。一時的に指揮権を奪うことに成功するが、意識が戻ったレイアらによって作戦は阻まれる。

これらの作戦は、彼らが正しいと思ってしたことである。しかし、結果的には、フィンの作戦によりレジスタンスが輸送船でクレイトに向けて脱出していることがファースト・オーダーに漏れ、かえってレジスタンスを危険にさらす。また、ポーの作戦により輸送船の出発が遅れ、より多くの被害を出すことになる。
これは、正しいことが分からず、正しいと思ってしたことがかえって問題を生むという、レイ三部作の問題意識も表現している。

この作戦の失敗は、彼らの能力不足によるものだろうか。その面は大きいだろう。違法駐車により地元警察に捕まるというのはお粗末といえる。

それでは、彼らはこの作戦を立てるべきではなかったのか。結果的にはそうである。しかし、それはあくまで結果論であり、未来を知ることができない彼らにとっては妥当な選択だったと私は考える。
彼らにはホルドの作戦が伝えられていなかった(それがなぜかはあとで述べる)。実はホルドに作戦があることは、彼らには分からない。そのような状況では、たとえ失敗する可能性が高いとしても、何かしらの行動を起こすという判断は妥当だろう。

よって、そもそも作戦を立てるべきではなかったと言うことはできない。必要もない作戦を立てざるを得なかったことは、未来を見通すことができないという状況を表してもいる。

1.5ホルドの作戦の失敗

『最後のジェダイ』では、ポーたちの作戦と並行して、アミリン・ホルドの作戦も進められる。
ホルドの作戦は、輸送船で極秘にクレイトに向けて脱出し、ファースト・オーダーが去ったあとに仲間に救援を求めることである。

この作戦が成功するかどうかは、ファースト・オーダーに作戦を知られないことにかかっている。そのため、ホルドは味方にさえほとんど作戦を伝えない。

ローズの登場時に、ポッドを奪って逃げようとした人が、フィンが来る前に3人いたことが語られる。これは伏線である。
逃げ出す人がいるほど、レジスタンスの統制は取れていない。そのような状況でホルドの作戦を伝えれば、ファースト・オーダーに情報を売る人が出る恐れがある。作戦を伝えれば士気は高まるだろうが、情報が漏れる危険も高まる。ホルドはこれらを天秤にかけ、作戦を伝えないことを選んだ。

ことの顛末を知っている我々観客が、ホルドはポーに作戦を伝えるべきだったと言うのは簡単である。しかし、これはやはり結果論であり、当時のホルドには分からないことだ。また、仮に作戦を伝えたところで、作戦が成功したとは限らない。

ホルドもポーたちも、それぞれ自分が最善だと考える行動を取る。結果的にはそれは失敗だった。しかし、当時の彼らは正しい答えを知ることはできない。
『最後のジェダイ』では、結末を知った観客が「こうすればよかったのに」と思うような行動を登場人物に取らせている。これにより、彼らは結末を知りえないこと、未来を見通すことができない状況であることを伝えている。

1.6ウェイファインダーを捜す旅

作戦を立てられないこと、計画通りにことが進まないことは『スカイウォーカーの夜明け』のウェイファインダーを探す旅でも描かれている。

この旅では、事前に分かっていることはパサーナに手掛かりがあるということだけである。また、探すものがオーチの船、C-3POの記憶をバイパス操作できる人物、オーチの短剣と行き当たりばったりに変わる。分かるのはせいぜい次何をすればいいかだけで、全体を見通した計画を立てることはできない。結局皇帝のウェイファインダーを手に入れることはできない。最終的にウェイファインダーはカイロ・レンの戦闘機の中という思いがけないところから手に入れる。

この旅では、綿密な計画など立てようがなく、行き当たりばったりにできることをするしかないという状況が描かれている。

1.7クレイトの戦い

同様の状況は『最後のジェダイ』のクレイトの戦いでも描かれている。

クレイトの戦いでは作戦はないに等しい。ただし、これに関してはレジスタンスの能力不足が理由ではない。そもそも勝てる作戦は存在しない。

クレイトの戦いは、『帝国の逆襲』冒頭のホスの戦いを引用している。白い戦場でウォーカーにスピーダーで立ち向かうという構図が一致している。ただし、クレイトの戦いでは、ホスの戦いより敵の戦力が大きく、味方の戦力は小さい。

相手のウォーカーは主にAT-ATとAT-M6である。初登場したAT-M6の「前足」はAT-ATよりも頑丈なデザインになっている。これは、AT-M6はホスの戦いのAT-ATようにケーブルを絡ませて倒すことはできないこと、つまり帝国のAT-ATよりも強力であることを象徴的に表している。
またバッタリング・ラム・キャノンというホスの戦いではなかった兵器も登場している。

対してレジスタンスの戦力は「腐りかけの弾薬」「ガタのきたスピーダー」である。

このように、クレイトの戦いは、苦戦を強いられたホスの戦いよりもさらに状況が悪いことが描写されている。これが示すのは、クレイトの戦いではそもそも勝てる作戦などないことである。

スピーダーでキャノン砲を破壊できる確率は限りなく低い。それでも何もしないでいるよりは確率が高いから出撃はする。しかしやはり無謀な作戦だと分かれば、犠牲を最小限にするために引き上げる。

クリスタル・フォックスを追うシーンも同様である。クリスタル・フォックスを追ったところで出入り口が見つかるとは限らない。実際出入り口は見つかったものの、人が通れるものではなかった。しかし、何もしないでいるよりかはまだましだから行動を起こす。

クレイトの戦いからは、正しい方法などそもそも存在せず、ただその場その場でできることをするしかないことが読み取れる。

1.8時間に追われるレジスタンス

映画の登場人物には、何が正しいか悠長に考える余裕はない。

『最後のジェダイ』では、レジスタンスの艦隊はファースト・オーダーに追われている。そのため、燃料が尽きる前に作戦を立て、実行しなければならない。ポーたちの考えよりもよい作戦はあるかもしれない。しかし、それについて考える時間はない。

『スカイウォーカーの夜明け』では、映画冒頭で、十数時間後にはシスの艦隊の侵攻が始まることが明らかになる。十分な準備をすることは不可能である。

時間が限られているなら、とりあえず今できることをするしかない。たとえ正しい答えがあるとしても、それにたどり着くために時間を使い果たしてしまったら意味がない。

今できる最大限のことをするしかないというレイ三部作の価値観は、このような状況を描くことでさらに正当化される。

2 守破離

2.1なぜ守破離なのか

正しいことが分からず、未来を見通すことができないなら、何をすればよいのか。どのように先人たちを継げばよいのか。

これに対する答えの一つが「守破離」である。
守破離とは、師の教えのとおりに型を守る「守」の段階、次に他流派の教えも取り入れ型を破る「破」の段階、最後に師から離れ独自の型を作る「離」の段階という3つの段階からなる一連の修行の過程を示したものである。

守破離は、一つのはっきりした指針に沿ってまっすぐ進むような方法ではない。基礎を身につけた上で(「守」)試行錯誤を繰り返し(「破」)、手探りで正しい答えを見つけ出す(「離」)ような方法である。

「守破離」という方法は、以下のことを前提にしている。

一つ目は、師の教えが完璧ではないことである。師の教えが完全に正しいならば、わざわざ「破」「離」などせず「守」だけしていれば十分である。

二つ目は、はじめから何が正しいかは分からないことである。何が正しいか分かっているならば、「破」という試行錯誤の過程を踏む必要はない。いきなり「離」にいけばよい。

師が完璧ではないこと、試行錯誤の過程が必要であること、これらを端的に表したセリフが『最後のジェダイ』に出てくる。ヨーダがルークに対して言った以下のセリフである。

YODA: Pass on what you have learned. Strength, mastery. But weakness, folly, falure, also. Yes, failure most of all. The greatest teacher, failure is. Luke, we are what they grow beyond. That is the true burden of all masters. 学んだことを伝えよ。強さ、熟達の業、弱さ、愚かさ、失敗。そう、失敗を伝えることが大事じゃ。失敗こそ最高の師となる。ルーク、わしらは超えられるためにこそある。それこそがすべてのマスターの真の責務じゃ。

師の立場であるルークに向けたこのセリフから、「守」をするだけでは不十分なことが分かる。また、失敗が最高の師であるということは、試行錯誤を繰り返すような方法がもっともよいことを意味している。

2.2守破離の象徴としてのカイロ・レンのマスク

カイロ・レンのマスクは、レイ三部作における守破離を象徴するものとして分かりやすい。最後にこれを取り上げる。

『フォースの覚醒』では、カイロ・レンはマスクをした姿で登場する。悪役が黒いマスクをつけるという設定は、もちろんダース・ベイダーを意識したものである。カイロ・レンはダース・ベイダーのような存在を目指し、彼の意志を継ごうとしている(だからこそ、自分がダース・ベイダーのように強くはなれないと恐れている)。『フォースの覚醒』でのカイロ・レンのマスクは、既存の悪役像を踏襲すること(しようとすること)、つまり「守」を象徴している。

『最後のジェダイ』では、カイロ・レンは自分でマスクを破壊する。また「古いものは滅びるべきだ」と主張する。『最後のジェダイ』でのカイロ・レンのマスクは、既存の悪役像を捨て去ること、つまり「破」を象徴している。

『スカイウォーカーの夜明け』では、カイロ・レンのマスクは修復される。修復の仕方が金継ぎからヒントを得たものであることに注目したい。マスクを壊れたままにはしないが、破壊をなかったことにもしない。むしろ破壊の跡を生かしている。『スカイウォーカーの夜明け』でのカイロ・レンのマスクは、「守」「破」の過程で得たものを生かし完成した悪役になること(なろうとすること)、つまり「離」を象徴している。

以上、レイ三部作では、正しいことが分からないこと、未来が予測できないことが描かれていると述べた。また、そのような状況で「守破離」のような試行錯誤する方法が有用だと主張されていることを見た。最後に、レイ三部作の「守破離」をよく表しているカイロ・レンのマスクを取り上げた。

次の記事からは、レイ三部作では具体的にどのようなテーマが「守破離」されているのか見ていく。


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