[スター・ウォーズ]レイ三部作の問題意識と答え(2/3)

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スター・ウォーズのレイ三部作(シークエル・トリロジー)を解釈するシリーズの3つ目の記事である。

2 レイ三部作の解答

正しいことが分からず、未来を見通すこともできないならば、我々はいったい何をすればよいのか。先人たちをどう継げばよいのか。

この問題に対してレイ三部作はどのように答えるのか考える。

2.1レイ三部作が選ばなかった解答

絶対に正しいことがなく、未来も分からないとき、我々は何をすればよいのか。この問いに対する解答はいくつか考えられる。

まず挙げられるのは「何もしない」という答えである。自分の行動が正しいという根拠はどこにもない。自分が正しいと思ってしたことが、かえって問題となることは往々にしてある。何をしても間違えるのならば、何もしない方がよい、という考えである。

別の解答として「それが正しくないことを承知の上で行動する」というものが挙げられる。正しいことは何もないのだから、自分の好きなように価値観を選び、行動すればよい。その価値観が正しい根拠はどこにもないが、そもそも正しい根拠がある価値観など存在しないのだから、それを批判することはできない。

これらの解答の特徴は「絶対に正しいことはない」という前提を前にして「正しいことをするべきだ」という価値観を捨てたことである。これらに対しては「現実逃避に過ぎない」あるいは「自己中心的だ」という意見はあるだろう。しかし、確かに問いに対する解答にはなっている。

レイ三部作ではこれらの解答は選ばれていない。ただし、これらの解答を体現したキャラクターは『最後のジェダイ』に登場している。それはルークとDJとである。

フォースから心を閉ざし惑星オク=トーに隠居したルークは「正しいと思ってしたことがかえって問題を生みうるのなら、何もしない方がいい」という考えをもっている。自分の失敗によってカイロ・レンを生みだしてしまったという自責の念が、このような考えに至らせたと考えられる。なお、ルークはレイとの交流およびヨーダとの対話を通して、映画の最後にはこの価値観から脱する。

DJは「正しい価値観などないのだから、自分の好きなようにすればいい」という考えをもっている。これは劇中の以下のセリフからわかる。

DJ: Good guys, bad guys, made-up wards. 悪い奴、いい奴、でっちあげの言葉だ。
DJ: Finn, let me learn you something big. It’s all a machine, partner. Live free, don’t join. フィン、いいことを教えてやる。世の中カラクリだらけだ。自由に生きろ。関わるな。
(DJがレジスタンスの情報をファーストオーダーに売り、自分だけ助かったことに対して)
FINN: You’re wrong. 間違っている。
DJ: Maybe. かもな。

DJの存在は、主人公たちの自分は正しいことをしている、あるいは正しいことをするべきという確信を揺らがせる。

2.2ジョージ・ルーカスの問題提起と解答

いったん脇にそれて、ジョージ・ルーカスがどのように思っていたのか考える。

絶対に正しいことがないことと未来を予想できないことは現代的な問題である。ただし、これらの問題はここ数年で一気に現れたわけではない。これらは数十年かけてじわじわと広がってきた(そしてこれからも広がりつづける)。

これらの問題は、アナキン三部作が制作される頃(90年代後半~00年代前半)にはかなりの程度進行していた(象徴的な事件としてイラク戦争が挙げられる)。

これらは、ルーク三部作のような単純な勧善懲悪では対処できないように思われる。勧善懲悪は(絶対的な)善と悪があることを前提としているからである。

ジョージ・ルーカスはこのことに自覚的で、彼はアナキン三部作でこれらの問題を正面から扱った。アナキン三部作では、ジェダイやジェダイ・オーダーは独善的な存在としても描写された。元老院が機能不全に陥っていて、自由や民主主義といった絶対的だと思われていた価値観が敗北する様を丁寧に描いた。未来の予測が難しいことはヨーダが口にしているし、実際ジェダイ・オーダーは未来を見誤った。

なお、正確に言うならば、アナキン三部作では絶対的なものがないとは言っていない。絶対的だとされていた特定の何か(ジェダイの正義など)が絶対ではなかったことは表現されているが、絶対的なもの自体が存在しないとは主張していない。
実際ダース・シディアスは依然として絶対的な悪として描かれている。また、未来を見通すことの難しさが描写されている一方で、変えられない運命があるという主張もなされている。

アナキン三部作では以上のような問題提起をしているが、それに対する答えは(少なくとも明快には)出していない。その理由は、アナキン三部作はアナキンがダース・ベイダーとなり銀河帝国が誕生するというバッドエンドになることがあらかじめ決まっていたからだろう。問題に対する有効な答えを提示してしまったら、悲劇として終わることができない。

しかし、ジョージ・ルーカスは答えをもっていたと考えられる。
アナキン三部作では正義や善の難しさを抽象的にではなくリアルに描いたこと、アナキン三部作では絶対的なものがないとは言っていないこと、これらをもとにジョージ・ルーカスの考えを推測する。

ジョージ・ルーカスは、上で挙げた現代的な問題を受けてもなお、やはり絶対的なものが存在すると信じていたのだと考える。

実際問題として、絶対に正しいことをすることは非常に難しい。正しいと思い込んでいたものがそうではなかったことは往々にしてある。ルーカスはそのことはもちろん承知しているし、それを映画で描いている。しかし、だからといって絶対に正しいことがないとは結論づけない。

正しいことをすることは現代においてますます困難になっている。だからこそ、本当に正しいのはなにか見極めることが重要である。これがルーカスの考えだと私は推測する。

このような考えに立てば、ルーク三部作は時代遅れな物語ではない。アナキン三部作での問題提起の答えは、やはりルーク三部作で描かれたものなのである。
実のところ、絶対的だと思われていた価値観が機能しないことは、ルーク三部作がつくられた時点で既に始まっていた(それはベトナム戦争やウォーターゲート事件に象徴される)。ルーク三部作はこのことに対するルーカスの答えだと考えられる。
つまり、ルーカスにとっては、絶対的な善や悪が存在することはやはり普遍的なのである。


※ルーク三部作を勧善懲悪の物語と見なしたことに同意しない人もいるだろう。ジェダイが善でシスが悪と考えるならば、ヨーダやオビ=ワンの助言に反した行動を取り、結果ダース・ベイダーを救ったルークは、単なる善ではあり得ない。私のここでの解釈は、ジェダイの善は善ではなく、ルークの善こそ本当の善であるというものである。また、少なくとも、ルーク三部作では銀河帝国が絶対的な悪で反乱軍が絶対的な善と描かれているという主張には、多くの人が同意するのではないかと思う。

2.3レイ三部作の困難

絶対に正しいことがないとすれば、何をするべきか。この問いに対してルーカス的に答えるならば「正しいことをすべき」となる。この答えが成り立つのは「絶対に正しいことはない」という前提を否定しているからである。

レイ三部作はどのように答えているか。レイ三部作の出した答えも「正しいことをすべき」である。しかし「絶対に正しいことはない」という前提に対する向き合い方は異なる。

ルーカスには、絶対的なものが確かに存在するという確信がある。だから、絶対的と思われていた価値観が機能していない事例を前にしても屈することはない。しかし、おそらくレイ三部作の制作者たちはそうではない。ルーカスのように確信を持って「絶対に正しいことがある」と言うことはできない。

また、本当に正しいことがあるとしても、何が正しいか分からないという現状は変わらない。
ルーカスならば「思い込みから脱し、心を平静に保てば、おのずから何が正しいか感じられるようになる」と言うのかもしれない。しかし、これが正しい保証はない。たとえこれが本当だとしても、我々のほとんどはこの境地には至れない。

本当に正しいことがあるという主張は、今目の前にある、正しいことが分からないという問題を解決する役には(少なくともすぐには)立たない。

ルーカスの意志を継ぐためには、正しいことをするべきという価値観を捨てることはできない。しかし、何が正しいか分からないという現状を無視することもできない。机上の空論とはならない、現実的な答えを出すことは非常に困難である。

2.4困難の解決方法

ここでは、絶対に正しいことがないことと、正しいことをするべきという価値観を両立することができる考え方の一つを紹介する。

今までの議論では「『正しさ』は時代や地域によって変わることはない」ということを暗黙のうちに前提としていた。絶対に正しいものだけが正しいもので、場合によって間違いになり得るものは正しいものではないと考えてきた。

絶対ではないものにも正しさを認めるのが、ここで紹介する立場である。この立場では、その時その場でしか成り立たない正しさも、一種の正しさとして認める。

正しさとは絶対的なものだと思い込んでいたことが困難の原因である。正しさとは、時代やコミュニティーに応じて、その都度作り替えていくものである。重要なのはその正しさに間違いがないことではない。間違いがあらわになるたびに、それを乗り越えるように正しさを更新していくことこそが重要である。

正しさの内容は変化しつづける。しかし、何かしらの正しさがあることは不変である。

この立場の特徴は、正しさを静的なもの、固定されたものとして捉えるのではなく、動的なもの、その都度吟味し作り出されるものと捉えることにある。

この立場にも課題は残されている。間違いがあらわになるとはどのようなことか。どうすれば間違いを乗り越えるように正しさを更新できるのか。絶対に正しいことがないのにこの立場が正しいとどうして言えるのか。これらに答えられない限り、この立場もまた机上の空論にとどまる。

さて、それではレイ三部作はこのような考え方にもとづいているのか。一部そのような部分はあるが、そうではない部分もあると私は考えている。

続く

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