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社会からの要請とジャムおじさん

2018年は葛藤の連続だった。

自ら撒いた種が芽吹き、自分のキャパを超える役割が増殖し続けた一年ともいえる。会社として、個人として、仕事の広がりは上々。「やってこ!シンカイ」のお店を立ち上げて、長野の土俵に上がった。店舗運営は大変だし、余裕の大赤字だが、目に見えない価値と信頼が溜まる実感がある。2019年は長野での動き方が大きく変わるはずだ。

新たに漁業、海をテーマにしたメディア「Gyoppy!」も始まった。誰も手を出していない領域にはそれなりの意味がある。まだ数ヶ月だが、難易度の高さに頭を悩ませているものの、これも数年単位で価値をストックしていけば、きっと花開く場所になると思う。

TBSのニュース番組「Dooo」の司会も大きなチャレンジのひとつだ。どこの馬の骨かもわからない、ただの編集者にすぎない自分に声がかかる時代背景も鑑みつつ、半年以上続けてやり甲斐や楽しさをようやく見出すことができている。なんだろな。良い意味で無責任に、真面目にやりきる術というか。60分収録のインタビューとして脳を切り替えれば、これまでの経験とこれからの予測に役立つ仕事になりそうだ。

どの仕事も声をかけてくれた40代の先輩やってこおじさんが素晴らしい人間性を持っている。この人たちのためなら一肌脱げる。そして本気でぶつかっていけば長い付き合いになることも、36年の人生経験のなかで知っている。

社会からの要請に疲弊した

ジモコロもBAMPもWEBメディアの場を借りた社会貢献の側面がある。地域や人生の課題を拾い上げて、できるだけ間口を広く編集し、人々に情報を届ける。

正直、私自身にはジャーナリズム精神の心持ちはほぼない。

あらゆる出来事を面白がって、好奇心の風呂敷を広げて、ずけずけと誰かの人生に良くも悪くも介入している存在だ。だからこそ真摯に人と向き合っている自覚はある。もちろん心配りが足りない瞬間もあるし、誰かを傷つける言葉も使っているだろう。この場を借りて謝りたい記憶が多々ある。

小さくコツコツと役割を積み上げて、その成果として報酬をもらう仕事だが、領域的に「社会からの要請」が発生しやすい。

社会からの要請とは、自分が撒いた種で芽吹いたものだ。大人の責任でもあるし、好奇心で社会を捉えられる性格だからこそ、要請が届くのはありがたい。そこで驕らず、謙虚に対応する。時には断ることもある。その連続性のなかに新たな役割が発生し、ステージの上がった社会からの要請が発生していくものだろう。

ただ、全部の仕事がそっち側に寄っていくと自分を超える。自分ではない自分を作り上げて、成長痛を伴いながら、頭の中にレベルアップ音を鳴らしていくことは人生の重要な要素だ。

だが、2018年は一時期そこに疲れてしまった。

本業のWEBメディアの編集はもちろん、二拠点生活+全国を旅しながらの取材ツアー、そしてお店の運営…。

自分自身の容量を見極めず、「やってこ!」の鼓舞魔法を唱えながら走り続けていたが、途中で心と体が分離してしまった。

自己の喪失。アイデンティティの再定義。やるべきことはわかっているものの、やりきれない自分との葛藤が生まれていった。このあたりから内省を始めて、人前で話すときも自分に問いかけながら言葉を探すようになった記憶がある。

なぜなら現実世界にジャムおじさんはいない

雑誌「ソトコト」で連載枠を持たせてもらっていて、新年最初のコラムに「現実世界にジャムおじさんはいない。利他的に振る舞った顔の回復は自分でやるしかない。それでもやり続けるしかない」そんなテーマを寄稿しているのでぜひ読んでみてほしい(執筆は根岸さん)。

一連の出来事の中で、自分のキャパを見誤り、社会からの要請に応え続けた結果、顔の濡れたアンパンマンみたいになってしまった。

幸い良い仲間には恵まれていて、自分の弱さも理解してもらえている。ときには甘え、ときには遊び、軸足で立ちつつ、なんとか耐え切ることができた。

それこそ10代や20代の困難に比べれば全然マシだ。この葛藤はじっと耐えれば過ぎ去る。そのために「自分だけの孤独」を大事に愛で、ジャムおじさん不在の理を言語化し、いかに生きるかを考え続けた時間だった。長野で温泉に浸かり、サウナと水風呂の交互浴で思考を飛ばし、美味いメシと美味い酒を嗜んで、下世話でくだらない会話を楽しむ。そしてしっかり寝る。

そうすれば顔は回復する。時間はかかれども、回復できる状態を知っていることが心のインフラになっていった気がする。

人は「変わらない」ことを大事にしすぎているんじゃないでしょうか。何かを経験すれば「人生とはこういうものだ」と確信を持とうとする。揺らがない、ブレない、それがアカンのです。頑丈そうに見えて免震構造がない。現実は、つねに新しい局面を迎えていきます。「いま」を見て、感じて、合わせていく。そのためにはいったん揺らがないといけません。「揺らいでいい」という自覚を持つことが「無常という力」です。世の中は無常であるし、私も無常なんです。仏教では昔から「揺らぐ」ことを「風流」と呼びました。揺らぐことが自然だと思っていれば、あるいは植物のようにあれほど変化していいと思えれば、もっと楽になれるんじゃないでしょうか。 https://bamp.is/interview/negishi12.html

人生は「ゆれる」の連続だ。

心が揺れて揺れて、免震構造を理解し鍛える。楽しいこともキツいことも表裏一体で、心に影響を与えるストレスなのだろう。

「しょうがない」を隠し持って、自分のキャパに応じたり、あえて超えてみたりしながら、2019年も生きていきたい。

やるべきことは目の前に山積みだ。これまで撒いた種に水をあげて、芽吹いたものに心揺らそう。



1982年生まれ。全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。「ジモコロ」編集長、「Gyoppy!」監修、「Dooo」司会とかやってます。わからないことに編集で立ち向かうぞ!