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抹茶ミルク12

母に医師の言葉を伝えると、「私は離婚してもう他人だから、あなたたちが決めなさい」と言われてしまった。何も思わないではないだろうに、そのまま真理子おばさんと玲子おばさんの方に歩いて行ってしまった。相談する暇も与えられなかった。

「どうする?」と俊に尋ねると、
「俺は兄貴に従うよ。自分では決められない」
と、さっきと同じ返事を繰り返してきた。

つまり、それは、俺におやじの生死を握る役をやれ、ということだった。自然死ではない、他人によって決められる死。罪を犯して罰せられるわけでもない。意識がないという理由で、血のつながった子供から押し付けられる死なのだ。

頭がくらくらしてきた。さっきまで感じていた安ど感はどこかに吹っ飛んでしまっていた。でも、決められない。決められるわけがない。人の生き死にを、なぜ俺が決めなくてはならないのか。

「ちょっと外を歩いてくる」
病院の空気が急に薄くなり、息が吸い込めなくなった気がした俺は、目の前で突っ立っているでくの棒を置き去りにして、外に向かって猛然と歩きだした。


もう夕暮れ近かった。
外の空気はきりりと冷えて乾燥している。頬の皮膚がぴりりと突っ張ったような感じがして、自分が生きていることに気が付いた。さっきまで、俺はおやじに同化していたのかもしれない。今にも肉体から離れそうな魂に共感していたのかもしれない。

ゆっくり呼吸すると、気管支に冷たい空気が入り込み、お前は生きているとささやかれた。白黒に見えていた世界に色が戻っていく。まるで夢から醒めたかのような。

周りには買い物袋を乗せた自転車に乗る女性と赤ちゃんや、公園からの帰りの小学生たち。オレンジ色の光に照らされて、急いで家に帰っていく。帰れば夕ご飯で、宿題やったらテレビ見てゲームして風呂入ったら寝るんだろ。お父さんだって遅くなるかもだけど、ちゃんと家に帰ってくるんだろ。

当たり前の毎日は未来永劫続くわけじゃない。自分一人があがいたところで、日常はいつだってたやすくくるりとひっくり返ってしまう。ようやくまともな生活が始められると思ったのに。当たり前の人生を手に入れようと思ったのに。
そんなことがどうでもよくなってしまうような決断に刻一刻と迫られて、俺の足はどんどん重たくなっていった。


どれくらい歩いたのか、目の前に小さな神社が現れた。
鳥居をくぐってコンクリートの石畳を進むと、神社の前にお賽銭箱と申し訳なさげな小さな鈴が吊るされていた。
俺はジーンズのポケットをまさぐって、5円玉を取り出し、お賽銭箱に投げ入れた。鈴を鳴らし、祈った。

どうしても決められない自分の弱さに困っています。どうか後悔しないで決められる強さを俺にください…

手を合わせ、ひたすらに目を閉じて祈った。すべてを神様に委ねる気持ちになって。

目を開けた。決められないのは相変わらずだし、何も状況は変わっていない。でも、なぜか心が静かだった。

くるりと踵を返して神社を出ようとすると、
「和志、俺のことは気にしなくていいんだぞ」
という声が聞こえた。

振り向くと、宙に浮いて胡坐をかき、一升瓶片手にコップ酒を飲むおやじの姿があった。ニコニコ笑って元気そうなおやじは、「いいんだよ」と呟き、消えた。


それから先はぼんやりして何がどうなったかよく覚えていない。
でも俺は病院に戻り、看護師さんに医師を呼び出してもらい、おやじの生命維持装置を外してほしい、と伝えた。装置は明日の午後の3時から外されることになり、2時には親族が集まることが決まった。
全てはベルトコンベヤに乗ったようにスムーズに運んだ。たぶん、おやじが自分でやっているんだろ。そう思えた。

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