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egg(24)

★夏休みが終わったので再開します。 

第十一章
 
高藤恵美は台所で洗い物を終えて、うーんと伸びをした。夏休みになって子供たちの学校が休みになったから、1日3食の用意をする日々になった。息子の哲治には塾で食べるお弁当を持たせたし、娘の由美はバレエの練習で出かけているけれど、お昼には帰ってくる。今日のお昼は焼きそばにでもしようかしら。
あれこれ考えながら、鏡台の前に座り、資生堂アクエアビューティーケイクを取り出す。資生堂ビューティーケイクは私が美大生になった頃に発売された夏化粧のファンデーションだ。汗ばむ夏でも化粧崩れを防ぐファンデで、スポンジに水を含ませて仕上げる方法が、暑い夏に気持ちいい。毎年パッケージデザインが変わり、おしゃれなコマーシャルが私の心をくすぐった。
特に71年のコマーシャルが素晴らしかった。外国人の美女がアップで撮影され、強いライティングで照らされる。手や腕の動きと表情だけで表現するモデルに合わせて、「煙の中に沈んでいるような町が 光の中に沈んでいるように感じる 朝がある。」という印象的なナレーションが入るのだ。美しさはそれだけでアート。そんなメッセージを伝えてくれるコマーシャルは、私だけに向けられたものであるかのようだった。
そして今年の夏のコマーシャルも良かった。矢沢永吉という男性歌手の歌声が5人の美女の海でのバカンスをけだるく印象的に盛り上げる。「時間よ止まれ」というサビが気持ち良く、このファンデを付けるだけで、夏のバカンスに行っている気分になれる。
化粧を終え、夏用の買ったばかりの白いフレアスカートをはいた。トップスの海のように青いサマーニットと相性がよく、まるでテレビに出てくる南国の白い砂浜が広がっているようだ。頭にさざめく波の音を感じると、自分も資生堂のコマーシャルに出ているモデルになった気がする。気分よく買い物に行こうと外に出たところで、隣の奥さんにつかまった。
「あらあら高藤さん、お買い物?」
「おはようございます。ええ、そうなんです」
と恵美は買い物かごを持ち上げた。急いでいる風を漂わせたつもりだが、お隣さんはいつも私を逃がしてくれない。頭の中の波の音が急速の遠のいていくのを感じた。
「そういえば、さっき哲治君が自転車に乗って出かけるところを見たわよ。塾に行っているの?」
「夏期講習なんです。勉強ができないから大変で……」
恵美がため息をつくと、隣の奥さんが言った。
「そんなことないわよ。うちの息子に爪のアカを煎じて飲ませたいわ。『夏期講習には行かなくていいの?』って聞いても、『必要ない』の一点張りで」
「でも、息子さんは東大に続々と合格しているあの優秀な八王子東高校に入学されたじゃないですか。受験が終わったばかりで少し休憩したいんじゃないですか?」
「そうは言ってもねえ。周りはもっと勉強しているんだから、人並みにやってほしいのよねえ」
と、頬に手を当てて心配そうに語った隣の奥さんは、ふと思い出したように「そうそう」と話を続けた。
「最近は哲治君、夜中に出歩かなくなったじゃない。よかったわねえ!」
「はい、おかげさまで」
「ほら、この前ご主人が哲治君を叱っていたじゃない? あれが効いたのかしらねえ?」
と、隣の奥さんは夫の隆治が深夜に庭で哲治を怒鳴り飛ばしたときの話をしてきた。
「ああ、この話か……」と心の中で毒づきながら恵美は詫びる。
「本当にあの夜はご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、いいのよ。ただね、あのあと哲治君がずっと庭にいたから、どうなることかとはらはらしたのよ。朝まであのままだったのかしらって」
「はい、主人がかなり怒っていて、朝まで家にいれるな、と言うものですから……」
「まあまあ!」
と隣の奥さんは目を丸くして気の毒そうに言った。
「私なら心配で心配で、夫の目をこっそり盗んで家に入れたくなるところだけど……。我慢なさったのね。でもそれも躾よね。あの日は大変でしたわね」
「はい……」
としおらしく返事をしてはみるものの、やはり自分の言葉という気がしない。
はっきりとした自覚があるのだが、私にとって哲治は全く可愛くない子供だ。生みたくないのに生まざるを得なかったという気持ちが強かったからか、かまってあげなくてもベビーベッドでおとなしくしてくれる子供だったからか……私には母親として哲治を愛している実感がずっとない。
だって、あの子は夫の隆治のように勉強ができるわけでもなく、私のように美的センスが高いわけでもない。スポーツくらいできるのかと思ったら、グローブでボールをキャッチすることすらままならない。
人並みの能力がないだけではない。ちりちり頭でおどおどして、時々爆発するように怒ったかと思うと、私を恨めしそうに見ては黙って下を向くから、何を考えているかわからなくて気味が悪い。
しかもここ数ヶ月で急に身長が伸びて隆治を追い越し、口の周りにはうっすらとひげまで生えてきた。さらにパジャマの裾から見えるすね毛が真っ黒くて太いのにはぎょっとした。子供のときの哲治はまだ見られたものだったけど、おでこや鼻の頭に赤く膿んだニキビがぼこぼことできたひょろ長い姿は、私の美的感覚とはけた違いに遠い存在だと感じる。
あの子の存在自体が気持ち悪くてたまらないから、もともとほとんど抱っこしなかったけど、最近は必要がないときは目も合わさないように気を付けているくらいだ。
 
「高藤さん、大丈夫?」
黙り込んだ私の顔を隣の奥さんが心配そうに伺っている。はっと我に返って
「いえ、大丈夫です。ごめんなさい」
と黙っていたことを詫びると、奥さんがいいのよと手を振って優しく言った。
「もしも今度哲治君が外に出されるようなことがあったら、ご主人に内緒で哲治君をうちで預かるわよ。だから大丈夫。あなたはそんなに自分を追い詰めてはだめよ」
「いえっ! ご迷惑をおかけするわけには!」
焦って断り、ちらりと腕時計を見る。まずい、そろそろ由美が帰ってくる時間だ。
「あの、申し訳ありませんが、そろそろ買い物に行かないと。由美が帰ってきてしまうので」
隣の奥さんがあら!という顔をした。
「ごめんなさいね。引き止めちゃって」
「いえ、それでは行ってきます」
挨拶もそこそこに小走りでその場を離れた。
角を曲がったところで歩みを止め、ふうっとため息をついた。
口うるさい隣の奥さんに哲治を預けたりしたら、ますます頭が上がらなくなってしまう。哲治のためにこれ以上気を遣わさせられるのはまっぴらごめんだ。
買い物かごを反対の腕に持ち帰ると、恵美は商店街に向かって歩き始めた。

 

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