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型の考察 書道編

ボビナム編に続き書道編行きます! 書道は左利きの私を心配した母が、小学二年生のときに習字を習わせたことがきっかけです。結局高3の受験で辞めるまで、休むことなく続いた唯一の習い事がこれでした。高校で子供の部から大人の部に移動するのですが、それまではひたすら楷書と行書を練習していたはずです。最も習う回数の多い楷書は、兎にも角にもひたすらお手本の通りに字を書くことがよしとされます。書く順はもちろんのこと、とめ、はね、はらいの筆にかかる圧力をお手本の字から読み解いて再現します。また空間の作り方も大事で、線と線の間の捉え方を体感して把握するんです。

子供の頃からやっていたからか、左手で書いていた字をいきなり右手で書く羽目になったからか、文字を書くというよりは、線と点の塊をなぞる行為が私の書道になっており、それは最後まで変わらなかった気がします。特に高校生からは草書を習い、小筆で仮名交じり文を書いてましたから、もはや暗号笑 意味なんてほとんどわかんないまま(説明してもらっているが基本理解してない)、ひたすらに文字をリズミカルに写す生徒でした。リズミカルと言えば、私は楷書より行書や草書の方が断然好きでしたね。楷書のちょっと重たいクラシックな響きより、行書・草書に響く格式を壊していこうとするロックな感じ。殊に草書はヘッドファンキングしたくなる縦ノリ感に満ちていて、書いてて気楽でした。師範の評価も楷書よりずっと良かった覚えが…。それに、お手本の通りでなくても評価されるのが新鮮でもありました。というのも、文字の流れが自分の流れにそぐうと書体が自然とずれてきてしまって止められないからなのです。気がつくと私の字になってしまって、お手本とはちょっと違ってしまっているのに、これは良いと褒められる。楷書ではまずありえないことでした。楷書が型なのだとしたら、行書・草書は型破り。破った先に何があるか、無自覚でしたが、きっと何かを探していたのだと思います。

その後、書道なんて全く触れることもないままに来たのですが、ある日突然、書いてみたくなりました。 小説出版やらVRワールドの制作やら映像の編集やらデジタルイラストやらと、作りたいものがどっと増えたときに、なんだか突然です。それまでも子供たちの冬休みの宿題を手伝うために筆をとりましたが、まあひどいもんで笑笑 まさかまた書きたくなるなんて夢にも思ってなかったんですが、湧き上がる衝動に負けてしまった。そして、所詮遊びよ、と大好きな草書だけを書き始めたのです。

最初に書いたのは春夏秋冬。お手本を見ながら恐る恐る半紙に文字を乗せていきます。最初は字形と筆順の把握に精一杯。筆の力の入れ加減もあやふやでしたが、10枚ほど書いたら突然手が勝手に動き出す瞬間がありました。頭はついていかないのに、体だけは昔の動きを正確に蘇らせ始める、とでもいうのか。穂先が腕の延長になって、勝手に力の入れ方を加減し出し、すらすらと筆が動き出したのです。それはあまりに突然であまりに自然でした。そして、その瞬間から脳はともかく身体は昔の書に向かう様をすっかり取り戻してしまったのです。

これはボビナムの体は理解しても頭がついていかない体験とそっくりです。個人的な体験でも同じことはあるのでしょうが、型は入り方と溜まり方が、言い換えると情報量が分厚い気がします。何千人、何万人、何十年、何百年の練磨によって鍛え上げられた何か普通でないものがある。これを我々は本物と呼ぶのかもしれませんが。ともかく洗練された入力装置であり、身体を使った出力装置になるのが型なのだと感じています。



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