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egg(34)

 
第八章
 
西武新宿線の高田馬場駅のトイレで、わたしこと高藤由美は激しい下痢と戦っていた。もうすぐおばさんの高藤弘子に会う時間。早く待ち合わせた喫茶店に行かなくちゃ。そう思えば思うほど、下腹部はぐるぐると音を立て、水のような便がほとばしり出た。あまりの勢いに肛門が切れてじんじん痛む。
おへそから下に向かって「の」の字をかくように下腹部をマッサージするといいとお母さんに教わった。腸が空っぽになればトイレから出られる。わたしは冷や汗をかきながら、肌が赤くなるくらいごしごしとおなかをもみ続けた。
トイレから出られたのは30分以上経ってからだった。わたしはリクルートスーツに乱れがないかをチェックしてからよろよろとトイレを出ると、改札を通り抜けて約束の場所に向かった。お店の前について腕時計で時間を確認すると、待ち合わせ時間の20分前だ。早めに家を出たのが大正解だった。わたしはほっとして喫茶店の扉を開けた。
入口が見える窓際の席に座ると、わたしはおしぼりで手を拭き、メニューを開いた。
「ご注文は?」
と小柄でちょび髭のマスターに聞かれたので、
「待ち合わせをしているので、連れが来てからでもいいですか?」
と聞くと、マスターはぺこりとお辞儀をしてカウンターに戻っていった。
氷の入ったお冷をごくりと飲んでから、わたしは自己PRと志望動機を書いたノートを取り出した。大学の事務員になるなんて考えたこともなかったけど、細かい仕事は得意だったし、お客様である大学生の反応が目の前で見られるのはやりがいがありそうだ。それに女性の事務員もたくさんいて、結婚・出産を経ても働き続けている人がいることに勇気づけられる。お父さんが言う通り、わたしに向いている仕事なのかもしれない。弘子おばさんが来る前に、ノートを見なくても自己PRが正しく言えるかを確認しようと思い、わたしは小さな声で練習を始めた。
 
カランカラン。
待ち合わせ時間から10分経ったころ、喫茶店の扉が開き、ふわふわのパーマをかけたボディコン姿の女性が入ってきた。おばさんだ! と思い、わたしは急いで席を立つと、彼女に向かって挨拶をした。弘子おばさんはわたしの姿を頭の先からつま先までじっくりと舐め回すように見て言った。
「由美? 大人になったわねえ」
「ご無沙汰しています。弘子おばさん。東京にいらっしゃったんですね」
席に着いたわたし達のところに早速マスターがやって来た。
「あたしはキリマンジャロ」
灰皿を寄せて煙草に火を付けながら弘子おばさんが言う。
「わたしは……ブレンドありませんか?」
マスターに尋ねると、マスターが困った顔をして言った。
「すみません。ないですね」
「じゃあ……」
わたしは焦って答える。
「こちらの方と同じものをお願いします」
慣れない注文が終わってほっとして向き直ると、弘子おばさんが笑って言った。
「由美~、あんたコーヒーの名前も知らないの?」
わたしは縮こまって答える。
「はい。普段コーヒーを飲むときは『ドトール』しか使ったことがなくて。コーヒーにはブレンドしかないんだと思ってました」
「ははっ、あそこは安いもんね!」
煙草を持つ弘子おばさんの指には大きなダイヤの宝石が光っている。ネックレスとブレスレッドはゴールドで太いチェーンの形をしていて存在感があるし、つやつや光るスカーフとブランドマークでデザインされたピンクのボディコンのワンピースは弘子おばさんに恐ろしく似合っていた。もうボディコンが流行らなくなって何年か経ったと思うけど、弘子おばさんは流行とは一線を画して生きているように見える。すごいなあと感心していると弘子おばさんが言った。

「それで、お兄ちゃんから電話があったけど、日照大学の事務員になりたいんだっけ?」
「はい!」
と緊張して答えてわたしは封筒から履歴書を取り出し、おばさんに手渡した。
おばさんはつまらなそうに履歴書を眺めるとわたしに問いかけた。
「ねえ、事務員になるって話、由美の希望なの?」
「父から勧められるまで事務員という仕事を検討したことがなかったのですが、調べてみてやりがいのありそうな仕事だと感じるようになりました。今は第一希望として考えています」
「なるほどねえ…」
と呟いて、おばさんは煙草の煙を吐き出しながらわたしを値踏みするように見つめた。わたしは妙に落ち着かなくなって、髪が跳ねてないか、ワイシャツの襟は曲がってないかと気になってしまった。

「お待たせいたしました」
そこへマスターがキリマンジャロ2つを持ってきた。それまで辺りに充満していた煙草の苦い匂いが、コーヒーのふっくらとした香りで中和されていく。弘子おばさんがコーヒーに口を付けるのを待ってから、わたしもようやくコーヒーを飲んだ。
「あれ? 酸っぱい……」
驚いているわたしを見ておばさんが教えてくれた。
「キリマンジャロっていうのは酸味が強いコーヒーなのよ。ドトールのコーヒーとは全然違うでしょ?」
「はい。びっくりしました。まさか酸っぱいとは思わなくて」
「そうよね。あたしも初めて飲んだときは腐ってるんじゃないかと思ったから」
ケラケラと笑って弘子おばさんがコーヒーをすする。
「舌に残る酸味と鼻を抜けるコーヒーの香りとのギャップが癖になっちゃってね。ずっとこればっかり飲んでいるのよ」
「へえ…」
わたしももう一口飲んでみる。確かに口に残るのは強い酸味だが、鼻を抜けるのはコーヒーのコクのある香りだ。ブレンドコーヒーとはまるで違う。こんなコーヒーもあるんだな。

「履歴書だけど、学長に渡しておくわ」
おばさんの言葉で期待に目を輝かせたわたしに手を振っておばさんが言う。
「あーでも、あんまり期待しないでちょうだい。決めるのは大学の人たちだからね。お願いはしてみるけど」
「よろしくお願いします!」
わたしは深々と頭を下げた。おばさんが言う。
「あんた、大学受験に失敗してうつ病になったんでしょ? もう治ったの?」
「はい! すっかり良くなりました」
「四浪したって聞いたときはどうなったのかと思ったけど。今の大学でしっかりやっているみたいで安心したわ」
「ありがとうございます!」
話しながら履歴書の経歴欄を指でたどっていた弘子おばさんの動きがふと止まる。少し間があってこちらを見たおばさんの顔に、何やらいたずらっ子のような微笑みが浮かんでいた。どうしたんだろうと思っていると、おばさんが目を光らせて言う。
「そういえば、11年前に蒸発した哲治の話、あんた何か聞いてるの?」

 

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