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抹茶ミルク16

葬儀の後、俺は一人で早めに自宅に戻った。そして、身の回りのものをかき集め、家を出た。もうあの二人とはいられなかった。あの視線を見返す自信が持てなかった。

荷物の中には、形見分けのときにもらった1冊の本も入っていた。おやじが遺した所有物は、古ぼけたボストンバッグ一つだけで、その中に、数枚の肌着と靴下、免許証と小銭しか入っていない財布とこの本があった。母は本には興味がないから、と俺にこの本を手渡した。何度も読んだらしい手あかのついた本が、おやじの分身に見えた。そいつを置き去りにすることは、どうしてもできなかった。

電車に乗ったのはいいものの、あてはなかった。ふと、昔、家族が住んでいた町に行ってみる気になった。
駅に降り立つと、相変わらずこじんまりした駅で、住宅街がひしめいているのが見えた。商店街の肉屋さんが揚げ物を売っている。幼稚園の頃は、帰りがけにここでよくハムカツを買ってもらったっけ…。ショーケースを見ると、1枚100円のハムカツはまだ健在だった。急に愛おしさに包まれて、俺は揚げたてのハムカツをぱくつきながら懐かしい通りをゆっくりと歩いた。

そのうち、町の中央を走る三沢川にたどり着いた。水がきれいでたくさんの鯉が泳ぎ、白鷺が飛び回る川で、両側が桜並木になっている。春になると川の両岸が桃色に染まり、ひらひらと舞い散る花弁が川自体も桃色に染め上げる。そんな桜の季節、よく川沿いの歩道を散歩したものだ。あの頃おふくろのおなかには俊がいて、俺の両側には両親がいた。
4人で歩いた道を、俺は今、一人で歩いている。

夕暮れになっていた。枯れ葉の残る桜並木の下を歩いていると急に雨が降ってきた。
三沢川沿いの住宅街には雨宿りできる場所がみあたらない。小走りに先を急ぐと、小さなカフェが目に入った。
そして今、俺はカウンター席で温かい抹茶ミルクを飲みながら、ぼんやりと物思いにふけっていた。

ザーザーと雨が降り、窓に雨がたたきつけられる音がする。雨宿りをしていたが、どうやら雨はますますひどくなるらしい。抹茶ミルクの後味の苦さにちょっと嫌な気分になりながら、俺は立ち上がった。
「ごちそうさまでした」

お金を払うと、マスターが心配そうに話しかけた。
「雨がひどくなってきましたね。駅まではここから10分ほどかかります。傘はお持ちですか?」
「あ、いえ…」
「では…」
といって、マスターはドアの横の傘立てから、ビニール傘を一本取って俺に手渡した。
「これをどうぞ」
「えっ、悪いからいいですよ」
と断る俺に優しく微笑んでマスターは言った。
「この傘はほかのお客様が数か月前に置き忘れたものなのです。どうぞ使ってください」

お礼を言って外に出た。雨だけでなく風も強くなっている。傘を差したが、足元はみるみる水浸しになっていった。

橋があった。ここを渡れば駅まですぐだろう。
そう思って、橋を渡り始めたとき、今までにない強風が吹いて、手から傘がもぎ取られた。

傘はあっという間に橋を越え、川の中に飛び込んでいった。
水かさが増し、濁り荒れ狂った水がどうどうと音を立てて流れ去る。そこへビニール傘が飛び込んだ。
ふわりと水に浮いた傘は、次の瞬間、濁流にのみ込まれた。そして取っ手の白い部分がちらりとのぞいたかと思うと、再び水中に没し、二度と上がってはこなかった。



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