過去にさよならしたくなる

「過去の人間関係」が苦手すぎて、ブログやら、mixiやら、Facebookやら、そのコミュニティを離れて数年経つとムズムズといてもたってもいられなくなって、ある日突然退会して消えてしまいたくなる。実際にそうしてしまう習性がある。

学校を卒業したら、もうその頃の人間関係の人がその人間関係のままこちらに声をかけてくるのも恐怖だし、同窓会なんてとんでもない。どういう顔して参加すれば良いのか分からないしもはや怖いの域。

夫は正反対の人間で、同窓会だーいすき。一度作った過去の人間関係に、アクセスするのもだいすき。
過去の自分もコミュニティもずっと変わらず大事に引き継ぎながら継続的に生きている。正直すごいと思う、私とは違いすぎて、それはそれで好ましい。彼は彼として、今後もそれで生きていただきたい。

私が10代の頃、高校通学の帰り道たまたま家の近所で中学校のクラスメートに出会った。クラスの中でも取り立てて仲良しというわけでもなく、あまりしゃべった記憶もないくらいの子だったけど、信号待ちで「かこらちゃん?!」と声をかけられて、私は単純にうれしくなってしまった。覚えていてくれた、と。

ただ、こちらが「元気?最近どう?」などと話しかける前に、その子は堰を切ったように「ガリ勉ばっか?」「辞書も全部毎日持って帰る?」「宿題多い?」「テスト難しい?」「成績とか貼り出されるの?」と一気に質問攻めをし、私はポカーンとしながらも慌てて答えて、まくし立てるようにサヨナラを言われた後に、ひとり急に静かになった帰り道をポツポツと歩きながらゆっくり察した。

ああ、ダシにされたんだ。

彼女の新しい人間関係の、だしにされた。
きっと、彼女のいる学校で彼女は明日、「あそこの高校の生徒にあった」「ガリ勉」「辞書とか持って帰っちゃうんだよ」「テストとか貼り出されるらしい」とかで仲間と盛り上がれるんだろうなと。そのネタの提供元として、私からいいネタを聞き出したかったんだ。彼女の仲間と盛り上がれるだけの。

だから「ガリ勉はみてない(事実)」「辞書持って帰ったこともない(事実)」「貼り出されない(事実)」などと、私がつまらぬ凡庸な返答しかしないので、あんなに食い下がったのだな。そもそもグイグイこれたのも「彼女の仲間と盛り上がる」使命感があってこそで、私と言う個人と出会えた喜びではなく、私とはもう終わった関係性だからどう扱ってもよいという判断だったと。

私は、この「遠慮が取れる瞬間」に立ち合いたくないのかもしれない。
Facebookでも、ああ、以前はこんな内容は発言しないひとだったのに…良い意味でなく新しい面を発揮する人がいる。

きっと、まだクラスメートであればされない質問。
お互いに立場があれば、情報も慎重に取り扱われ、不調和を避けるため、互いに遠慮したり配慮したりという無意識が働く。

それが過去の人間関係となると、その「共有した情報」の扱い方は個人の良識しだい。過去の人間関係から知り得た情報を、無闇にバラ撒く人間は信用を失うけど、どうダシにしようがそれはその人の自由。新たな人間関係を生き抜くために脚色して使われることもある。

さて、それは自分にも言える。

新たな経験や環境に置かれた「今のじぶん」がある、
一方で今まで深く関わってきた過去の人間関係のなかに、今のじぶんの環境がその人を「傷つけるのでは?」「見たくないのでは?」と感じる人物がいる場合、
過去の人間関係に配慮することが重荷に感じる。
今のじぶんが、過去の人間関係に全力投球の配慮をすることを「わずらわしい」と感じる。
その事も、なんだか哀しく。
過去の人間関係を深く知っているからこそ発生する細やかな配慮に縛られて今のじぶんが発表できないのもつまらない。
かといって、「まあ、あの子がつらく感じてもまあもういっか」などと配慮を打ち切る瞬間を自覚するのも、まだ食べられるが床に落ちた綺麗な林檎を勿体無いと思いながら踏みつぶすような、心地の悪さ。

「過去の自分」と言うものを、見たくないというのもある。自尊感情が乏しいので、至らぬ所があっても自分はいつでも尊い、的に思えないもんだから、いてもたってもいられない。過去の失敗ばかり気になってしまう。それを知られている過去のコミュニティごと、ぶん投げて宇宙の彼方にぶっ飛ばしてしまいたくなる。

大好きな、大事な友達がほんのほんの一握り。
縛られず、流されず、いつもどっしりと自分の人生を生き抜く。失敗しても、どんなに格好悪くても、腐らず生きる人。人に不機嫌を撒き散らさない、信頼できる人。

そういう人を、一握り残して、
また人間関係を一掃したくなる。

そうすると、軽やかな心地になる。
足枷が外れて、自由になる。

宇宙の広さを調べると、自分の人生のちっぽけさにうれしくなる。これは意見がわかれる所だろうが、私はほんのほんの小さな塵のような自分、と思うと安心してうっとりする。

過去の人間関係の動向が気にならないわけではない、繋がっておけばと後悔したことも一度や二度ではない。

過去の人間関係を基盤として安定感を得るひとは精神衛生上それが最上だと思うし、私のような苦しくなる派は足枷をその都度外して逃げていけばいい。

宇宙の広さに感動するか、
自分の小ささに感動するか、

私が一握り大事に抱えている友人はきっと、
私と違ってもちゃんとそう言ってくれるし、
どちらでも面白いと言うだろう。
それで私には十分だ。

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