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BC30「つらい仕事が楽しくなる瞬間」

秋になりました。大学生ならば就職活動考える季節です。

みなさんこれから様々なつらいことや楽しいことを社会で経験すると思いますが、今回は僕が経験した仕事でのつらさと楽しさから気付いたことをお話してみようと思います。

僕がテレビ局に入ったのは今から20年以上前の1994年ですが、当時は大学4年生になって就職活動するのが普通で、僕はいよいよ大学3年の冬になるのに実はそんなに卒業後のことを考えていませんでした。でも周りの友人たちは徐々にざわついてきて、ようやく考えるようになるわけです。

僕はどちらかというとオタクタイプで、人と交流するのはあまり得意ではなく、本当は大学院に行き研究者になりたかったのですが、君の成績じゃ無理と指導教官に早々と言われ、当時学生時代に演劇を少々やっていたのですが、そりゃクリエイターになりたいなとは考えてみても、プロの演劇人を本気で目指している先輩たちは当時流行り始めたフリーターという生き方をしている人もいましたが、なんか正直不安定そうで、なんか踏ん切りがつかなかったわけです。

で、就職活動がはじまるとテレビ局を始めマスコミ業界の採用試験が一番早く始まり、まずは練習になるしとりあえず受けてみるかと思い立ち、各テレビ局のエントリーシートを手に入れて、そこからいろいろ研究しだすと、制作部門や報道部門、アナウンサーや技術部門、一般職に分かれていることを知り、なるほどテレビ局ならクリエイターをやりながら安定的なサラリーマン生活できるぞ!くらいのそれこそ安易な気持ちでテレビ局を受けたのでした。テレビ局で働きたいと考えたことは今まで無かったものの、まあ子供の頃からテレビはよく見ていて大好きでしたし、それこそ『オレたちひょうきん族』でたけしさんやさんまさんの前で笑っているスタッフの笑い声を聞いて、そんなスタッフがうらやましいなと思ったことが多々あったことを考えると、今思い返すとそういう運命だったかとも思いますが。

受ける前に演劇の先輩のOB訪問をして、話を聞いてみると、制作部門は特に過酷で、言ってみれば演劇でいうところの一番忙しい小屋入りが毎日続くようなもんだぞ!と言われ、でも幕が上がる仕事を毎日やるのも悪くないなと思い、まあ各局を受けてみたわけです。
面接では、「入社したらどんな番組を作りたいですか?」の質問に、当時就職氷河期がすでに始まっていて、周りは無難な受け答えが多いなか、「エッチな番組が作りたいです!」って答えていたら、強気なのが功を奏したのか、珍しかっただけか、逆に民放では一番お堅いTBSに合格しました。入社直前の3月には、何もやることがなくて暇で暇でたいくつで、激務でもなんでもいいから早く仕事がしたい!と思っていたものでした。

入社して一ヶ月の研修期間を終え、制作局でバラエティ制作を志望したのは、演劇をやっていた自分にしたらやはりドラマ制作を希望するのが普通なのですが、ドラマは助監督から監督になるのに5〜7年かかると聞き、一方でバラエティは3〜4年でADからディレクターになれるよと聞き、ならばさっさとバラエティで出世してプロデューサーになっちゃえば、これはバラエティですって言い張ってドラマも作れるんじゃないか!なぜならバラエティって“いろいろ”って意味だろ?とか勝手に邪推して(というかその頃から今と同じようなこと考えていましたが)、一番激務だと言われるバラエティ制作部を志望したところ、念願叶ってバラエティ制作部に配属されました。


配属されたバラエティ現場では、早速バラエティ番組に配属され、一番末端のアシスタントディレクター(AD)を任され、それはもう予想通りというか予想以上にものすごく激務でした。

配属されるまでは体育会的な“しごき”が辛いのだろうと勝手に予想していたのですが、意外にもそんな“しごき”的なものはあまりなく(むしろ先輩方はみんな優しかった)、むしろそれは文科系的に紳士的にドサっと降ってくるいきなり大量の事務作業、果てしのないコピー取り、収録テープ整理、ロケ場所探し、弁当配り、撮影参加者のケア、タレントさんの対応、タクシー配車等等等、まさにその仕事の“責任”の物量に殺される寸前でした。


よくADが激務だと聞いたことがある方は多いと思いますが、具体的に何が激務かと聞かれると、例えば僕はよくこんな話をします。

皆さんは旅行のツアコンという職業を聞くとどんな仕事を想像しますか?旅先でのお客さんの求めるあらゆるリクエストを聞いて、それこそ様々な観光場所や、食事場所、移動手段、クレーム対応等、様々な手配をして、なおかつそのツアーをスケジュール通りに順調に進むように各所に気を配って遂行していく作業・・・ツアコンって大変な仕事だ!と思われる方が多いと思います。ADのロケ撮影での作業ってのはそんなツアコンの仕事と似ています。なるほどそりゃ大変だと納得していただけたならば、実はADはそれ以上に大変なのです。なにが大変かって、ADの場合まずそのツアーのお客さんは、主にタレントさんなわけです。いい方もたくさんいらっしゃいますが、なかなか大変な方もそれ以上にいらっしゃいます(笑)。

そしてこのツアコンっていう大変な作業は、実は物量で言えばADの仕事の半分でしかないのです。そのツアコンの仕事を普通にこなすのは大前提で、もう半分の仕事、それは撮影そのものにまつわる作業、テープ素材管理、テープ素材の内容記録(スクリプト取り)、編集準備、編集作業、テロップ入力、テープ搬入等等等をそれこそOAまでに確実にこなさなきゃいけない。その圧倒的なやることの多さでまさに休む暇無し、寝る時間も無し、それこそ食事時間も無くて、トイレの個室で弁当を食べてたこともあります。僕はこのテレビ業界に入って、よくもこんな重要な仕事をペーペーに任せるよな、ってむしろ感心したくらいの責任ある仕事がいきなり大量に襲ってくるわけなのです。それがADの激務なのです。

そんな激務の中、あまりにつらくて脱走して、連絡も絶って、行方不明になったことも何度かあります。実家に帰って、動物園でぼーっと猿を見ながら、俺は何をやってるんだろうと途方にくれたこともあります。

実家でその激務を父に伝えると、「まずは3年がんばりなさい!」とアドバイスされました。

何言ってんの?こんな状態を3年も続けてたら本当に死んじゃうよ!って思いましたが、なんとか会社に戻り、自分を騙し騙しADをやり続け2年、3年と経つと、徐々に辞めたいという気持ちが薄れてきました。

そしてちょうど3年で“辞めたい”が“辞めない”に変わりました。

でもそれは辞めたいって気持ちがなくなったわけではないのです。もしこの仕事を辞めて、別の仕事についたら、またその仕事でペーペーから1からやり直しか!ならば、もうちょっと耐えてディレクターになっちゃった方が早いぞ!って思いに次第に変化していったからなのです。

今にして思えば父の“3年がんばれ!”の真意が分かります。同じところに同じように3年いるという意味ではないわけです。同じところに3年いれば、3年分ペーペーじゃなくなるのです。そうすると、ぺーぺーでは見えてなかったことが、見えてくるのです。それが1年目の僕には当然わからなかった、想像もつかなかったわけなのです。なので、僕が今この職場で見る新人ADたちには、その意味も伝えるようにして、まずは3年がんばれ!とは言っています。当然彼ら彼女らに伝わっているかは心もとないですが。

そして激務に耐えて、4年目で僕はディレクターになったわけですが、それで楽になったかというと、実は逆でした。

確かに身体的な辛さは軽減されましたが、それ以上に、タレントさんと直で向き合って、視聴率を取るんだ!よい内容を作るんだ!という精神的プレッシャーが増すわけです。そして、それは総合演出になり、プロデューサーになり、とその後地位が上がってみてからも、徐々に増えていくわけです。

ということは実はその“つらさ”ってのは実は、入社以来ずーっと正比例で上がっているわけで、この瞬間のつらさを乗り切れば、あとは楽だ!みたいな思いは実は幻想なわけです。僕がそれに気づいたのは、そうですね32歳あたりかもしれません。

それまでは、この収録を乗り切れば!とかこの特番が終われば!とかいつも思っていました。休みができたら南の島でボーッとするぞ!ってのが20代の頃の夢でした。ところがそれが32歳の時、突然変わったのです。ちょうど『中居正広の金曜日のスマたちへ』をチーフディレクターという立場で立ち上げて1年半たった3月でした。


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