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BC29「企画について考えるときに僕が考えること」

僕は職業柄、日々企画を考えています。なので周りからは、よくいろいろ思いつきますね?その企画を立てるときってどんなことを心がけているのですか?等々よく聞かれます。なので、今回は“企画について考えるときに僕が考えること”をお話したいと思います。

突然ですが“必要十分条件”って高校の数学の時間に習いましたよね。数学に強い方はともかく、普段そんなに使わない言葉かもしれないですが、“必要”も“十分”も“条件”も、日常でよく使う言葉ではありますし、実は僕らは知らず知らずにこの必要十分条件に無意識のうちに縛られているんじゃないか?と僕は企画を考えるときいつも考えているわけです。

そもそも“必要十分条件”ってなんでしたっけ?
AならばBって場合、
AはBの“十分条件”で、
BはAの“必要条件”です。
例えば・・・

「犬(A)は動物(B)である」

って命題は成立していますよね。この場合少なくとも犬であれば十分に動物なので、AはBにとって“十分条件”です。
でも「動物(B)」には他にも猫も豚もいるわけで、少なくともは「動物(B)」であることは「犬(A)」であることに必要なので“必要条件”です。
そしてその逆も成立するとき、“必要十分条件”と言います。なので「犬は動物である」って例は当然“必要十分条件”ではありません。
どういう例があてはまるかというと、野球でいうと、

「点を多く取る(A)と勝つ(B)」

というのは、“必要十分条件”です。「勝つこと(B)」は「点を多く取ること(A)」と同値であるからです。
あれ?でも何年か前の高校軟式野球大会の延長の連続で話題になったとき、確か54回やっても決着つかなかった場合、くじ引きで決めるってルールになってましたね?てことはこの命題も厳密には“必要十分条件”じゃないのかもしれない(笑)。

・・・というふうに、数学の場合はさておき、日常の生活で“必要十分条件”が成り立つのって、なかなか難しいわけです。ところがですね、僕らは何か行動するときや企画を考えるときって、すぐ“必要十分条件”を無意識のうちに成立させたがります。例えばテレビの例で言うと、

「○○という人気タレントが出てる(A)と、視聴率が取れる番組(B)です」

って命題の場合、「○○という人気タレントが出てる(A)」ことは「視聴率が取れる番組(B)」の“十分条件”ではありますが、決して“必要条件”ではありません。違うタレントさんが出てももちろん視聴率が取れるかもしれないからです。
また「視聴率が取れる番組(B)」は、「○○という人気タレントが出てる(A)」ことの“必要条件”ではありますが、決して“十分条件”ではありありません。だって○○が出てても視聴率が取れない場合もあるからです。

これはテレビに限ったことでなく、僕らが生活してると、特にマーケティング論で企画を作ったり、マニュアル本を読んで行動したりすると、特に顕著になります。
AだからB(売れた)という“必要条件”が成立してるからといって、B(売れる)ためにはAであるって“十分条件”は全然成立してるわけではないのに・・・。
ではなぜ企画を“必要十分条件”で作ってしまうのでしょうか?

多分それは僕らが意識してか無意識にか、マーケティングって“必要十分条件”だって誤解してしまうからです。というかそういう根拠があって安心したいのです。そう思い込んでマーケティングを利用してその企画に保険をかけたいですし、もっと意地悪に言えばそう誤解して企画を作り、そう相手に誤解させないと、企画が社内やクライアントに通らないからなんだろうと思います。そして、そう誤解してさせて、企画が成立した暁には、仮にそれが失敗したときには、「あれ、おかしいな?マーケティング的には正しかったんですけどね・・・」って関係各所にエクスキューズしたいためなんだと思います。

でも、そんなんでおもしろい売れる企画が作られるわけがない!
多分僕らは企画を考えるときに、マーケティング結果を使うにせよ、その結果を“必要十分条件”にあてはめえて考えないようにしなければなりません。

そして、この“必要十分条件”の誤解はまた、その企画の合否を判断する側の人間も実は勝手に無意識にしてしまいがちなのです。

例えば、アニメ界の巨匠宮崎駿さんのお話です。
宮崎駿監督は1979年にルパン三世の第2作目の映画『カリオストロの城』で映画監督デビューしました。しかしこの傑作アニメも映画公開時は興行的には不振で、評判が良くありませんでした。そしてその後の次の宮崎監督作品は1984年の『風の谷のナウシカ』なのですが、その間4年あまり、宮崎駿さんが作った企画は出しても出しても全部ボツっているのです。でもその間に宮崎監督が提出した企画というのは、のちの『となりのトトロ』だったり、『天空の城ラピュタ』だったり、『もののけ姫』の原案なのです。多分当時の企画担当者は、「あの『カリオストロの城』で失敗した宮崎駿だから、この作品はヒットしない」と勝手に、“必要十分条件”にしたてあげて、彼の企画をボツにしたわけです。
ある企画決定者がある企画を採用不採用にする判断って、いったい何の意味があるのでしょうか?だってそのボツ企画は『トトロ』だったり『ラピュタ』だったり『もののけ姫』という名作なのですよ!でもその判断した人にセンスが無いだけだ!なんてはっきり断言できる自信は僕にはありません。だってそれがヒットするかしないかなんて、そんなの実は企画書上じゃわからないわけです。企画書なんてヒットするもヒットしないも、そんなの判断する方だって、勝手に自分の中でそのヒットの法則を“必要十分条件”だと判断して、むりくり決めてるだけなのです!

じゃあ僕らは、“必要十分条件”ってのを全く無視して気にしなきゃいいのでしょうか?

ところがこの“必要十分条件”を勝手に持ち出してきて安心してしまうという人間の性が、精神的にはさらに“必要十分要件”をより成立させるのを助長しているんじゃないかと僕には思えるのです。
例えばですね、例えばあなたのまわりに生理的に合わない人がいたとします。なのであなたはその人が嫌いです。それってどっちが“必要条件”でどっちが“十分条件”なのでしょうか?
普通ならば、

「生理的に合わない人(A)だから、あなたはその人が嫌いだ(B)」

となり、「生理的に合わない(A)」って事実を「嫌い(B)」な理由(十分条件)だと考えます。時間軸でいうと、その人と接してみてなんか生理的に合わなくて、そして嫌いになった、ということですね。ところがそれってこうもいえるのでないでしょうか?

「あなたがその人が嫌い(B)だから、そいつとますます生理的に合わない(A)」

その人が「嫌い(B)」という事実が、ますます「生理的に合わない(A)」って気持ちを助長していくのに十分・・・ってことってありませんか?だとすると、この命題は“必要十分条件”なわけです。
要するに、その人が思ってしまった気持ちやイメージという原因に引っ張られてどんどん結果も悪くなるんですが、いつしかその結果がますます原因にフィードバックしていってどんどん悪化するという事態です。
これはかなり悲劇です。でももしこんな最悪の人間関係を改善したいのであれば、逆に言えば、まずその人に好意をもてば、やがて生理的に嫌いって思いが好転する可能性もなくはありません。「いやいや、そんなこと絶対ない!」って思われるかもしれませんが(笑)、意外にこの人そんなに嫌いじゃないかも?ってちょっと暗示をかけるだけで、意外にそれまで散々嫌だったところが気にならなくなることもあるわけです。

以上のように僕は企画を考える際に、マーケティングやただの思い込みなどを“必要十分条件”にしてしまいがちな自分を戒めつつ、一方でその企画を吟味する側の人も、結局原因と結果の“必要十分条件”がどっちがどっちだかよくわからないいい加減な生き物なんだって、吹っ切って考えるようにしています。

じゃあそんな中で、結局僕が企画を考える際の一番の拠り所はなんなのでしょうか?

それは“得意分野で勝負する”ってことです。

これはどういうことかというと・・・

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