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第46段「広島原爆の日に想う」

昨年の2017年8月6日の原爆の日に、思ったこと感じたことを、ブログに書いた文章です。

「攻めない、攻められた方の傷は消えないから」

これを書いて、facebookとTwitterでリンクを貼ったら、たくさんの人から共感のいいね!をいただいた。

一方で、ものすごいアンチのコメントももらった。

でも、そのアンチのコメントは全部、僕がこの文章の冒頭に書いたネットとテレビ局のことへの反感だった。

仮に一つでも、広島のことや、戦争のことで、アンチのコメントがきたのであれば、その意見を聞いてみようと当初は思っていたのだけれど、大量のアンチは100%、ネットとテレビ局のことへの反感だった。

僕は、このネットとテレビ局のことを、あくまでたとえ話で書いた。

大上段に平和を訴えるより、僕の身近なことで、その僕が実際に攻められて、今でも心の傷になっていることを、書いた方がよいかと思ったからだ。

戦争や原爆で多大な被害に苦しんでいる人の思いに比して、多分圧倒的にささいなことでも、攻められた方は傷になる、ってことを卑近な事例で書いたのだ。

そんな大したことでなくても、攻められた方の傷は癒えない。

いわんや、それが戦争になったら、その傷は金輪際絶対消えない。

だから攻めない方が、(どんな理由があれ)攻めないで、先に進む方がいいんではないか?

僕はそう思うのです。

昨年の8月6日にそのことをブログに書いたことで、僕はさらに卑近なことで攻められるという体験をまたしたのでした。つまり攻めないと書いたことで攻められた。

そして、その一年前に攻められたことは、僕の中で、(どんなに小さくても)やっぱりまだ消えていない。

というか、拙著『13の未来地図』『運の技術』にも書いたけど、かなりその小さなことが、その後の僕の人生の選択に大きな影響を与えている。

つまり、「攻めない、攻められた方の傷は消えないから」のまた実例ができたのだ。

なので、攻められて、やっぱり思うのです。

「攻めない、攻められた方の傷は消えないから」



「攻めない、攻められた方の傷は消えないから」

今から12年前に僕が元いた会社を買収しようとしたネット会社とその代表を、僕は今でも嫌い。

そんなこと辞めた後に今さら言う必要もないのに、言っちゃうくらい嫌い。

その事件で社内の雰囲気が俄然悪化したから。

それまではよくも悪くもいい会社だった。ユルイ会社だった。いい番組を作ろうと和気藹々としてた。
その事件以降、コンプラと予算の厳守が第一優先になった。もともと真面目な人が多いから、そのお達しはほぼ守られ、その際、いい番組を作るのは、必然的に優先順位が下がったのだ。

さらに言えば、その業界の中で、ネットアレルギーが蔓延した。そのアレルギーは今も綿々と続いてて、結果日本のメディアを“井の中の蛙”状態にして、日本のメディアを停滞させてしまってると思う。

でもその時、件の会社が買収しようとした行為は別に違法でもないし、経済ルールに則っていたし、別に非難される筋合いのものではないのかもしれない、資本主義世界では。

それは、僕(ら)が、なかなか消えない嫌悪感を植え付けられたという、攻められた側の一方的な思い込みなのかもしれないんだけどね。

つまり人は攻められるとその攻めがどんなにルールに則ってフェアで有効であったとしても、傷が残るんだ。
それは国家でも組織でも個人でもそう。
攻められた嫌悪感は消えない。ずーっと残る。

攻めることは歴史において攻められた側に傷しか残さない。

攻めた方が、後でどんな言い訳しても正当性を主張しても、攻められたという事実の傷は無くならない。

つまり、僕らに攻める理由があったとしたなら、攻める以外の方法で、その理由を達成させるべきなのだ。
僕らはどんな正当性があっても“攻めない”で、だからって泣き寝入りするでなく、解決する方法を目指す方が、結果お得だし早い。

それは、国家でも組織でも個人にとっても、お得だし早い。

そして、それは人類の歴史においても、お得だし早いんじゃないだろうか?

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