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第194段「電源ケーブルと人生」

執筆旅行と言う名の東北への9月初週の1週間の旅から東京に帰ってきて、さて何をやろうかといえば、文書を書こうと思っている自分がいる。
あれ、なら旅をしようがしまいが一緒じゃんか、とか思うけれども、まあ、そこは違うのだよと自分に言い聞かせる。でないと旅自体をすることが無意味になってしまい、その考えをつきつめていくと、自分の人生という旅もそもそも無価値なんじゃないかと思えてきてしまうから。
で、文章を書く前に、その前にウォーミングアップにと、このNOTEでこの文章を書いている。もうなんだかよくわからない(笑)。

最近、人生についてあらためて考えている。まあ性分的にいつも考えてるタチなんだけど、8月はいろいろあったので、ほんといつも考えてる自分の考え方にも変化が起きてる。
例えば、この文章を書こうと思ってPCを開く。充電が足りないから、電源ケーブルを探す。
あれ、ない?そこで無性にあせるのだ。
あれ、旅先に忘れて来たか?すごくあせる。
これ無いとこの週末仕事にならないぞ、とか。
いろいろ探したら、結局は別の鞄に入っていた。ホッとした。

でもそれであらためて思うんだよな、自分はPCの電源ケーブルが無いことくらいで、ものすごく不安になってるのかと。
電源ケーブル1つが無いと不安でしょうがないのかと。
そして電源ケーブルをみつけて、ものすごく安堵している自分がいる。
なんだ、こんなにも自分の人生の喜怒哀楽は電源ケーブル1つの存在の有無に絡め囚われているのか?
どんなにあがいて、どんなにもがいて、それでいろいろ考えて選択して、いろんなしがらみを解きほぐして、なんとか出口を見つけて脱出して、仮に自由が手に入ったとしても、結局は電源ケーブルに絡め囚われて一喜一憂してる人生にすぎないのだ。
自分の人生なんて、たかだかそんな人生なのだな。

そしてそんな自分の人生に絡んでくる電源ケーブルとは、この電源ケーブルとはあくまでメタファーであって、税金とか贅肉とか締切とかトイレットペーパーとか車の縦列駐車とかゴミの出し方とかに、まあいろいろいろいろことこまかに絡め囚われ続けるわけだ。
人生そんなんでいいのかとも思うし、人生そんなもんなのかとも思うし、しょせんその程度が人生なんだともあきらかになると、ちょっと自分の人生にあきれてくるし、人生にあきらめも薄々見えてくる。

あきらめって、本来は”あきらか”と同じ語源で、”つまびらからにする”って意味らしい。
あらためてあきらかになるから、あらためてあきらめがつくのか。
あらためて人生なんて、さっぱりよくわからない。
September7,2019

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