いつか子どもに伝えるときのために2011.3.11

昨年2017年の9月に子どもを産んだ。毎年3月になると東日本大震災での記憶を思い出す。わたしにとっては苦しい記憶なのだけれど、自分の子どもが生まれて考え方がすこし変わったようだ。

今があのとき想像できなかったほど穏やかで、静かで、幸せで、いつかあの2011年3月11日の記憶がわたしの中から少しでも消えてしまうことがおそろしくなった。同時にいつかわたしが死んで子どもだけが残されたときに、また大きな地震が起こってしまうかもしれない。

いつか子どもに伝えるために地震のおそろしさ、備えの大切さを伝えるために記憶が鮮明なうちに残すことにした。

もしあの日々を思い出すのがつらくなってしまう方がいたら、ここで読むのをやめてください。




2011年3月11日のこと

わたしは福島県のある市で暮らしていた。新卒で運良くも安定的な団体職員として入職したわたしは第三希望の福島県のある医療施設に配属された。

14:46 午前からお昼までの売り上げのお金を銀行に持って行ってもらうために事務所に戻ったときに揺れた。

当時はガラケーだったのだけれど、機種変更を最近していたわたしの携帯が緊急地震速報のブザーを鳴らして、とっさだったけれど係長に「地震きます!」と伝えた。老朽化していた事務所はこれまでに感じたことのない激しい横揺れに襲われた。なんとか事務所の大きなテーブルの下に先輩たちと駆け込んだ。いつもは冷静な先輩たちも悲鳴を上げていた。泣いている人もいた。コピー機も揺れて机の引き出しもむき出しになり、廊下の防火扉が全て閉まった。

それからの記憶がもう断片的で、あっという間に2か月ぐらいたってましたという状態。

揺れが収まり、わたしは事務所を出て廊下の防火扉の出入り用のちいさなドアを開けて病棟に向かうことにした。どうして、とっさに行動できたのか変な勇気が出たのかはわからない。今思うと、本当に偶然すぎて恐ろしくもあるのだけれど前日に地震と原発での被ばくを想定した訓練を行ったからだと思う。訓練にはあの電力会社も参加した。

病棟をまわって負傷者がいないか確認をして回った後は、たしか待合室のテレビを点けて院内中のスタッフとニュースを観た。大きな津波が迫ってくる仙台市の上空をヘリから写した映像は今でも覚えていて、震災後その待合室のテレビの前を通るだけで、テレビがついていないのにあの光景がフラッシュバックしてきて涙が出てくることもあった。仙台市出身の先輩は泣きじゃくっていた。

夕方になり、負傷者や救急車が押し寄せて来るかもしれないという予測をもとに待合室の椅子を移動して、ブルーシートを床に敷いたり簡易的なごみ箱を作ったりした。それから医事課の先輩にトリアージの仕方を説明された。緑、黄色、赤そして黒のタグを搬送されてきた患者さんの手や足などにつけること。ドクターに言われたことをメモして患者さんのそばに添えること。

想定していたよりも地震の被害はひどくて、救急車も出動できず患者さんも来れなかったので搬送数は少なかった。それでもわたしもトリアージに駆り出された。普段患者さんと接することはあっても、このような形で関わることは仕事として経験していなかったので緊張で手が震えてメモの字が大きく揺れていた。

ここからの記憶の時系列がバラバラなので箇条書きにする。

・院内のエレベータを使うことができず、給食の配膳下膳は階段で1トレーずつバケツリレーのように手渡しで行った。当時6階まであった。

・震度5以上の揺れを感じたら職員宿舎に住んでいる職員は24時間駆け付けた。集合場所はエレベーター前。課長はパジャマで来ていた。いつ揺れるかわからず、宿舎も老朽化で築50年ぐらいたっていていつ倒壊するかわからなかったので、わたしはジャージを着てこたつで寝ていた。いつ揺れても逃げられるように。

・水の供給が1週間なく、500mlのペットボトルの水をわたしの最後の水として残していた。震災後1年後にようやく捨てた。髪がベトベトになり、あとでウエットティッシュや水のいらないシャンプーを買っておけばよかったと後悔した。被災後、数日たってから自衛隊かどこからか具なしのコンビニで売っているようなおにぎりが支給されるまで、大きなまるい薄いエビ煎がわたしの食糧だった。小麦粉があったので買ったばかりのホームベーカリーで食パンを作った。洗米があまりできずに炊いたら、美味しくなかったけれど、大事に食べた。

・地震後、あの電力会社のお問い合わせ先の電話にスタッフ一斉に数時間も電話したけれど、つながらなかった。関東の方にヘリで重症患者さんを搬送する手伝いもした。制服ではなく、防寒対策のために私服勤務OKとなり高校の頃のジャージやパンツで働いた。休みはなかった。今日は何曜日かという感覚もなかったと思う。

・ガソリンが不足して、医療スタッフが通勤できなくなった。地震のストレスなどで通勤できなくなり、のちに退職してしまった先輩もいた。

・外来の窓口でおしゃべりをしていくおばさんや、おじさんが増えた。地震の被害を伝えていく人、家が全壊したのだけれど罹災認定が下りず、再度罹災申請を待っている、保険証もなにもかも津波で流されたのでなにも持っていないという人たち 対応するだけでも辛かった。

・海外からの取材があり、英文科を出たわたしが駆り出された。被ばくをしたであろう人をスクリーニング検査する方法や洗浄方法をつたない英語で説明した。「被ばく」の英語がわからず日本語で話したら理解してくれた。どこの国の人だったか忘れてしまったが、取材した外国人の男性は「自分は結婚したばかりで被災した日本に行くのを妻がとっても心配していた、でも取材頑張ります。あなたも頑張ってね。」のようなことを話してくれたと記憶している。

・原発から約50キロ離れていた。「万が一のときは、〇〇はどうやって逃げるの?」と当時直属の上司であった先輩に尋ねられ、「自転車ですかね」と冗談を言って何とか気分を保つしかなかった。市からヨウ素剤が配布されて、肌身離さず持ち歩いていた。原発に関して、根拠のないデマが伝わっていて困った。被ばくの雨が降るという声を遠くの両親が心配して、のちにレインコートを送ってきたことがあった。うがい薬を飲むといい、わかめを多く食べるようにといったデマもあった。

・テレビで繰り返し流れていたACのアニメーションのCMを見ると苦しい記憶もあるけれど、みんなで必死になって仕事をしていた様子も浮かんでくる。あのCMが仕事のバックミュージックだった。あのCMへの批判が多くあったからか、途中からアンパンマンのCMに切り替わったが、アンパンマンの曲を聴くと当時のいろんな思いがよみがえってきて涙が出てくる。

・近くのスーパーが開店するまで3時間ぐらい前に到着したけれど、それでも長蛇の列だった。卵を1パック買って課長とシェアした。開店した直後なのに店内は空っぽだった。

・余震が起こるたび、涙が出た。当時安否が確認できなかった親友を思って窓口で勤務中に泣いてしまったこともあった。

・家の冷蔵庫や食器棚など扉全てにガムテープを貼って揺れに備えた。のちにはがしてもはがしきれないガムテープの跡を見て、地震を思い出し苦しくなった。

・家族に自分の安否を伝えるとすら忘れていて、震災後5日たって公衆電話で伝えた。被災地だったため、公衆電話が無料で使えたりすることを後で知った。幼馴染が心配して電話してきてくれて嬉しかった。

・地震が起きてから数か月間ずっとマスクをしていたので、耳が傷つきテイッシュで耳をカバーしながらマスクをした。耳のきわが少し切れた。

・被災後、わたしの被ばく量は体に影響がないであろう予想数値ですと説明された用紙と健康管理のためのファイルが県から届いた。こんなファイル買うぐらいなら、もっと他のことに予算を回してほしいのにと憤った記憶がある。



また思い出して追記するかもしれない。あの地震が起こらなかったら、今でもあそこで働いていたのかもしれない。目の前の子どももいなかっただろう。

起きていなかったら、多くの人を傷つけ大切な人、ふるさとを失う人もいなかった。

日々の備えや訓練を甘くみていてはいけないこと。どんなことが起こったとしても、わたしが恵まれたように励まして支えてくれる近くの人たちを大切にして乗り越えてほしいこと。この記憶からこどもに伝えたいことがたくさんある。

#東日本大震災 #地震 #日記 #記録 #写真

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MAHO YAMAGATA

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コメント5件

ありがとうございます。災害は思い出すのは辛いですが、前に進むこと、これからできることを考えることを大切にしたいですよね。
MAHOさんこんにちは
備えあれば憂いなし
ことわざが頭の中にストンとおちてきました。私は、阪神淡路大震災の時、経験したのですが
最初の揺れの時は、もしかして揺れが大きくなるのかなという不安で、マンション6階の家から飛び出し、階段で下に降りる途中、初めて会った住人らしき人と話し二人で、何故か屋上の階段で揺れが収まるのを待ちました。今、思えば気が動転してたんでしょうね。なんで地震の時に行ってしまったのか。その時は初めての経験で、へんなドキドキ感恐怖感が凄かったのを覚えています。
幸い、私がいた場所は余震がある程度で収まりました。
備えも大事ですし、MAHOさんと一緒で、周りの人を大事にして前を向いて歩いて生きたいと思います。貴重なお話しありがとうございました。勉強にもなりました。お身体も大事になさって下さいね。
nauta さん こんにちは。お返事遅くなってしまいましてごめんなさい。阪神淡路大震災のおはなし ありがとうございます。大変なときこそ、普段はあまり話さなかった人とでも協力できることもありますよね。わたしも普段はお泊まりも旅行などもなかった同期と震災時は一緒に寝泊まりして助け合うことができました。そんなヒトとの温もりがあの悲惨な記憶の中での支えとなっています。
nautaさんもお体大事になさってくださいね。ありがとうございます。
お写真をお借りしてテキストを書きました。使わせていただいたお礼のお返事をと、クリックしてこのノートを知りました。そして何故、この写真に惹かれたのかが分かりました。体験された方が書かれた文章を読む事は、とても重要な疑似体験となります。又、備えるべきもののリストの発見、減災に役立ちます。
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