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山里の釣りから

『FlyFisher』2014年12月号掲載

僕はほとんど渓流で釣りをしている。山々に囲まれているというだけで気分は上々である。とくに初夏以降は決まって福島の某村に通う。もう8年は通っているだろうか。その間、川の変化というものを定点で見てきた。初めて岩魚が釣れた一筋の流れであった場所は、大雨の増水で中州となり今はもう存在しない。

一昨年は台風で大水が出て川底が土砂で埋め尽くされていたが、去年の大雨でそれも流され、今年は綺麗な川底に戻っていた。川は自然の力で再生を繰り返すのだと知った。
 しかし、そこで暮らす人々との交流というと大してしてないし、山村で暮らす人々が日々どのような暮らしをしているかと言うことに考えを向けたことはほとんどない。

 大水が出たときの大きな岩が流れ、岩と岩がぶつかり合う音が夜どうし聞こえたことや、雪崩で木々が倒されたことなどを村の人から聞いただけである。また、山村の経済活動についてはまったく無知であるし、その川がどこへ流れていくか、またそれらの歴史についても知らない。
『山里の釣りから』では、山村における人々の暮らし、経済活動、川の役割と歴史などが語られ、前述の自らの無知に恥ずかしくなった。川は、都市部においては上下水道、工業用など経済活動に不可欠な〝水〟を確保するために利用されてきた。しかしその川の源である上流域である山村では川を生活に利用することがなくなり、山村の生活と川が断絶しているというのである。
また山の一滴のしずくが集まり沢となり、谷へと流れ一本の川となり、中流、下流と多くの川が集まり海へと流れ出ると思っていた川が、実はダムなどで堰き止められ切断され、降海する山女魚や鮎などが内陸に閉じ込められている現状にも警鐘をならしている。そして、都市部の経済活動から疎外されて山村の自立経済が失われ自壊していくということや、都市部への水資源の供給という理由で作られたダムの底には廃村となった村が沈んでいる。
なんともやりきれない。
ふと思い出したのがジョン・ブアマンの1972年の映画『脱出』である。都会に住む四人の男性がダム建設によって失われる川をカヌーで川下りしようと向うが、野蛮な山村の人々に襲われ、生き残るためにサバイバルするという映画である。四人の内二人が村人に襲われるが、その描写について監督のブアマンは「彼ら(村人)は森の邪悪な精霊なんだ。そして森の侵入者に、ある種の復讐を果たす。一方、この二人の犠牲者は、川を殺す都会人の象徴なんだ」と語る。
映画の表面だけ見れば都市生活者が野蛮な山村の人々に襲われるという図式であるが、山間部のダム建設という山村を無視した都市部の押しつけと、その都市を象徴する男性四人の身勝手な振る舞いに『山里の釣り』の都市と山村の関係を重ねてしまうのである。

本書は、都市部が山村を顧みず、自らの経済活動の持続発展のためだけに山村を犠牲にしたことへの怒りに満ちた部分もあるが、

〝村人は川を直接生活のなかに織り込むのではなく、川を釣り場として都市の釣り人の前に提供し。そのことをとおして川との間接的なつながりを持つようになったのである。川のもつ自然の生産力と村人の生活が調和する時代から、川を釣り客を呼ぶ手段として利用するときはじめて川の存在意義があらわれるような時代に変わったのである。〟

と語られるように、山村と川の断絶から再生への希望も覗かせてくれる。

何も考えずに釣りをしていた僕は本書を読んでいる最中説教をされているようで申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。けれども僕は来年もあの福島の村に行こうと思う。
毎年、村の食堂のご主人から年賀状が届く。それが川へ行く理由でもあるのだ。

『内山節著作集 2 山里の釣りから』
内山節/著
農山漁村文化協会 3,132円 ISBN:978-4-540-14126-3

『脱出』
1972年 アメリカ
監督:ジョン・ブアマン
出演:ジョン・ヴォイト、バート・レイノルズ

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